黙示録4:10
二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。
天では礼拝がささげられています
A.Wトウザーは、偽物の礼拝について語っています。
にせの礼拝がたくさんあります。それは、ただ自然への喜びを表現するにすぎません。人々は木や川を前にして感じる、魂を吸い取られたような気持ちを、礼拝と勘違いするのです。~中略~
愛や音楽、詩でしかない宗教には警戒するように忠告したいと思います。~中略~
美しく組み合わされた音と、礼拝は違います。霊とまことをもって A.Wトウザー著 いのちのことば社
恍惚となることや、涙を流すことが礼拝なのではありません。「歌うこと」は礼拝ではありません。「歌うこと」が賛美ですらないこともあります。本当の賛美は、主の臨在に導き入れます。そこから礼拝へ移行することもあります。しかし、いつもそうではありません。
「愛や音楽、詩でしかない宗教には警戒」する必要があります。サタンは、偽物の礼拝を教会に蔓延させたいのです。なぜなら、サタンは礼拝の素晴らしさと力を知っているからです。ゆえに、自分に礼拝を強要するのです。人々に偶像を拝ませるのです。
もともとケルビムであり、タンバリンと笛を持っていたサタンは、おそらく賛美の中心だったのでしょう。彼は、自分のささげる賛美の素晴らしさに酔ってしまったのかもしれません。
私たちがもし、本当に礼拝をささげることを学ぶなら、教会は完全に変えられるでしょう。
週に一度集まって、賛美をささげ、御言葉を聞くという「集会」が礼拝のすべてだとサタンは思い込ませたいのです。
そうして、私たちから「偉大な神の御力」があふれださないようにしているのです。
本物の賛美、本物の礼拝には力があります。サタンは高慢になって、そこから落ちてしまいました。
何度も言いますが「ひれ伏さない」なら礼拝ではないのです。サタンは決して「ひれ伏す」ことはありません。
礼拝とは「世々限りなく生きている方」にささげられるものです。礼拝とは「御座に着いておられる方にひれ伏す」ことです。礼拝者は、自分の冠を御座の前に投げ出します。そして言うのです。
心からの礼拝は、「主こそふさわしい」と認めることです。万物が、主にあって存在することを認めます。すべてが「みこころ」であることを認めます。
礼拝の本質は「ひれ伏す」ことです。自分のすべてを御前に「ひれ伏させる」ことなくして礼拝をささげているとは言えません。
私たちが「世々限りなく生きている方」の御前に「ひれ伏す」なら、すべてが「みこころ」なのだということを悟ります。
私たちは「神の主権」にすべてを委ねて生きるようになります。そうなると「知恵と啓示の御霊」が私たちの目を開いてくださいます。
私たちが「冠」を投げ出して「栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」が私たちの人生の中で高く掲げられるなら、初代教会のような御業が現れるようになると信じます。
私たちは礼拝しましょう。主の御前にひれ伏して「あなたこそふさわしい。すべては御手のわざです」と言いましょう。
私は御前にひれ伏します。
私に注目させる何もかもを投げ出します。
主よ、あなたこそ栄光を受けるにふさわしい方です。