ヨブ1:20
このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、
これが礼拝なのです
私たちは、ヨブの苦難を知っています。一日で、これほど多くのものを失うことなどあるのでしょうか。
彼は「財産」のすべて、羊やラクダや、しもべたちを失いました。また、愛する息子や娘も失いました。
ヨブは上着を引き裂きました。それは、悲しみを示す最上級の表現です。彼の心は、その上着のように避けました。
また、ヨブは「頭を剃り」ました。それは、自分の栄光を捨てるということです。自分は価値のない者ですという表明です。
そうして、ヨブは「地にひれ伏して礼拝し」ました。
そこには、美しい賛美も、喜びの踊りもありません。素晴らしい教えも、祈りのことばもありません。
すべてを失った人が、そのすべてを受け留め、ただ「ひれ伏して」いるだけです。
しかし、これが「礼拝」なのです。
感謝と賛美は、確かにあなたを礼拝に導きます。しかし、それは「礼拝」そのものではありません。
ヨブは「何が起こっているのか」を完全に理解したわけではありません。
「なぜ」このようなことが起こったのかを「理解」することは、御国に行くまでないでしょう。
ヨブは「悲しみを克服」したわけでもありません。彼の心は避けたままです。
つまるところ、「なぜだか分からなくても」「混乱したままでも」「悲しみを抱えながらでも」礼拝者となることはできるということです。
ある人は「礼拝とは、ひれ伏すという行為そのものだ」と言いました。
「ひれ伏す」ことがなければ「礼拝」ではありません。
「礼拝」とは「あなたがたのからだを」献げることです。
私たちは「霊」によって「生きたささげ物」として「からだ」を献げます。
たとえ「たましい」が「理解」していなくても、悲しみ、苦しみという感情を抱えたままであっても、それでも「からだ」に命じて「ひざをかかがめる」のです。
そういう意味において「十字架」は、究極の礼拝であったと言えるかもしれません。
御父は「まことの礼拝者」を求めておられます。
確かに、私たちは、主の御前に出ることによって「癒し」を受けます。主の御前に出ることによって「満ちたり」ます。感謝し、賛美し、主を喜び力を受けます。
しかし、覚えてください。
まことの礼拝とは「受けるもの」ではなく「献げるもの」なのです。
ヨブは「何も与えられない」どころか「取られたとき」に、主の御前に「地にひれ伏して礼拝した」のです。
主の御名は、ほむべきかな。
私も、ひざをかがめて、ただ主を礼拝する者でありたいのです。
主をほめたたえます
主よ、御前にひれ伏すことを教えてください
私のからだを生きたささげ物として献げます

