【創世記12:2】あなたは祝福となりなさい

夕暮れの虹

創世記12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

アブラハムに続く系図が記されます

ノアから、すべての民族、国民が生まれました。バベルの人々は「散らされたくない」と思いましたが、主のご計画の通り、人々は全世界に満ちるようにされたのです。私たちの視線は、ここから「全世界へ」と向けられました。

しかし、創世記は、再び私たちを「全世界」ではなく「一人の人」に注目するようにと導きます。

創世記11:10
これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、アルパクシャデを生んだ。それは大洪水の二年後のことであった。

創世記は、重要な人物、次の系図につながる人物の系図が最後に記されます。ノアの息子たちの場合は、それはセムであるということです。

セムの系図、つまり名前の羅列が続きます。彼らがどんな人物で何をした人々なのかは分かりません。多くの人々がそれぞれの人生を生きました。

歴史は進んでいきます。そして、それは、ただ一人の人に向かって進んでいきます。究極的には「イエス・キリスト」に向かって進んでいるのですが、今、創世記が示している「ただ一人」は、アブラハムのことです。

「全世界」から「一人の人」へ。

それは視野が狭くなったような印象を受けます。全世界でこれから多くの出来事が起こります。歴史の教科書に載るような事件も起こります。歴史的な建造物も建てられます。しかし、創世記は、そのようなことにはほとんど触れていません。

創世記は「アブラハム」と「その子孫」について詳しく記されています。それは、限定的な出来事、地域についての記事です。しかし、私たちはその中に「全世界」を見ます。なぜなら「アブラハム」の中に「全世界の祝福」があるからです。

主はアブラハムを祝福されます

なぜ、アブラハムは選ばれたのでしょう。本当のところ、その理由はわかりません。なぜだか分からないけれど、主はアブラハムに目を留められたのです。ただ、行いによるものではないとは言えるでしょう。私たちの「信仰の父」が行いによって選びだされたとは考えられません。

なぜ選ばれたのかは分かりません。けれど、彼が選ばれたのが「何のためであったか?」ということは分かります。

創世記12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

主がアブラハムを呼び出されたのは「祝福」のためです。アブラハムを祝福するためであり、アブラハムを「祝福そのもの」とするためです。

主は、アブラハムを「祝福する」だけではなく「祝福となりなさい」と言われたのです。前の訳では「あなたの名は祝福となる」でした。アブラハムそのものが「祝福」となるのです。

ゆえに続けて言われます。

創世記12:3
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

アブラハムは「祝福そのもの」であるのです。ですから、彼を「祝福する者は祝福」され「呪う者はのろわ」れるのです。地上のすべての部族は、アブラハムによって祝福されるのです。

アブラハムが「祝福そのもの」であるのです。アブラハムによって、ロトは祝福されました。アブラハムが過ちを犯しても「祝福そのもの」であることは変わりません。ゲラルの王アビメレクは、アブラハムの祈りによって癒されました。

アブラハムを「呪う者はのろわれ」ます。それは、「祝福そのもの」を侮ることになるからです。

2017新改訳は分かりやすく表示してくれています。「呪う」と「のろう」を漢字と平仮名で書き分けがされています。なぜなら、原語では別々の言葉が使われているからです。

「呪う」は「カーラル」という語が使われています。軽んじる、卑しめる、無視する、無関心というような意味です。どちらかと言うと「さげすむ」というような意味が強いのかなと思います。

一方、「のろう」は「アーラル」という語です。これは、そのまま「呪う」という意味です。

つまり、主は、アブラハムを軽んじたり、卑しめたり、無関心であったりするなら、容赦しないと言っておられるのです。

これは、アブラハムにとっては、見知らぬ地における安全の保障をなったでしょう。

そして、私たちにとっては「祝福」に対する心構えとなります。私たちは目に目えない「祝福」を決して侮ってはなりません。私たちは「祝福そのもの」に対して「軽んじる、卑しめる、無視する、無関心」という態度をとることは控えなければなりません。

これは、特に「イスラエル」に対して当てはまります。私たちはイスラエルのために祈ります。彼らが良い国かどうかは関係ありません。多くの誤解があってイスラエルが必要以上に悪く思われていることは確かでしょうが、私たちが祈るのは同情心からではありません。

ローマ11:28
彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。

イスラエルは「選びの民」です。彼らは父祖たちのゆえに愛されています。彼らには「アブラハムの祝福」があります。イスラエルを祝福する者は祝福されると私は信じています。ゆえに心を尽くしてイスラエルのために祈ります。

また、私たちもキリストにあって「祝福そのもの」となることができます。私たちは祝福を流す器に自分自身がなれるのです。

同じ理屈が「互いに愛し合う」ことにあてはめられます。兄弟姉妹はキリストにあって「祝福そのもの」です。ゆえに私たちはキリストにある兄弟姉妹に「軽んじる、卑しめる、無視する、無関心」という態度をとることはできません。

エペソ6:18b
すべての聖徒のために、忍耐を尽くして祈りなさい。

「祝福そのもの」であるすべての聖徒のために心を尽くして祈りましょう。決して無関心であってはならないのです。

このように、アブラハムの祝福は、私たちの生き方に大きく関わります。

私たちも祝福されています

それにしても、たいへん大きな祝福です。これが、ただ一人の人によって与えられるとは驚くばかりです。「地のすべての部族」がアブラハムによって「祝福」されるのですから。

彼を通して「全世界」を祝福する道筋が、主の御前にはあったということです。全能なる神は、世界の基が据えられる前から計画をお持ちでした。

エペソ1:4
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

私たちは、永遠の愛をもって愛されているのです。御父は、キリストにあって「すべての霊的祝福」をもって私たちを祝福してくださいました。それは、世界の基が据えられる前からの計画なのです。

私たちは、覚えていなければなりません。主は「私たちを選んで」くださったのです。「選ばれる」のは特別な人だけなどという偽りは吹き飛ばしてしまいましょう。

牧師や伝道師だけが「選ばれた」人なのではありません。それは、ただの役職名です。イエス様にある聖徒は、すべての人が「献身者」です。あなたは「選ばれて」います。あなたは召されています。主は、あなたがご自身に従順であるようにと招いておられます。

私たちは「天上にあるすべての霊的祝福」で祝福されています。それは、アブラハムの例にならえば、他の人の祝福となるためです。

私たちは、この地にあって「祝福そのもの」となれるのです。

エレミヤ31:3
主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。

「永遠の愛をもって」と主は言われます。あなたを愛する主の愛は「永遠」です。それは、時が定められる前からの愛です。

あなたを「真実の愛」で愛し続けてくださる方が招いておられることを知ってください。「献身」することは、聖徒であれば全員することです。

誤解しないでください。それは、神学校に行くことではありません。私の牧師は「神学校に行く必要はない」と常々言っていました。私は神学校に行ってはならないとは思いません。許されるなら行けばよいと思います。

しかし、献身は、誰でも、今、その場でできるのです。「主よ、私のすべてはあなたのものです」と申し上げればよいだけです。そして、示されたことに素直に従えばよいのです。誰かが言う何かを気にしてはいけません。

私は、みなが小さな教会を牧せばよいと思います。二人でも三人でも、五人でも七人でも、集まって祈ればよいと思います。そこに必ずしも、所謂、教職者がいなくてもよいと思います。教会を大きくしようなどと考える必要はないとも思います。それは一つの場所に集中させるものではなく、増え広がっていくものだと思います。私は、家の教会と呼ばれるような教会が、全国に増え広がるように心から祈っています。

どうか、覚えてください。あなたは「祝福されている」のです。そして、「祝福そのもの」として他の人に祝福を流すことができるのです。

その始まりは従順からです

アダムとエバから、ずいぶんと時が流れました。ノアが現れて、全世界に人々が満ちて行きました。そして、今、アブラハムが召しだされ、主の永遠の計画が見える形で現され始めたのです。全時代のすべての人々のための祝福です。

主は世界中を祝福するために、空の上に大きな文字を書くなどという方法は用いられないのです。私は時々思います。誰にでも分かるように、空に福音が書き記されればいいのにと。誰にも「神はいない」などと言えない方法で、ご自分を現わしてくださったらいいのにと。

しかし、主は、決してそのような方法をお取りになることはありません。

時間という概念からすれば、それはもう気の遠くなるような長い時間をかけて、一人の人から始められ、一人の人へと至らせるのです。私たちは、一人の人「キリスト」によって救われます。

この偉大な計画は永遠の昔からありました。しかし、その現れは、なんと小さかったことでしょう。それは、たった一人を召されることから現わされたのです。

アブラハム自身も、まさか自分が「信仰の父」と呼ばれることになるとは考えてもみなかったと思います。

創世記12:2
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

約束を聞いた時、アブラハムには理解できなかったでしょう。どのようにして、それが成ると言うのか、一人の子すらいないのに「国民」がどのようにしてできるのか。

主は「理解せよ」とは言われません。ただ「従え」と言われます。私たちには理解できないことを主は告げられます。私たちは「どのようにして」を考える必要はないのです。

アブラハムがするべきことはただ一つ「従う」ことだけでした。

主の召命には、いつでも理由がついているとはかぎらないが、いつでも約束はついていて、その約束は表現されるか、あるいは事前に了承されるかしている。理由を与えると議論を巻き起こす。

信仰の高嶺めざして F・Bマイアー著 いのちのことば社

アブラハムを召されたときも、主は「理由」を告げられませんでした。しかし、約束は与えられました。

アブラハムは「なぜ?」「どこへ?」と思ったかもしれませんが、理解できるまで留まろうとは思いませんでした。彼は、どこに行くのかを知らずに従いました。

ヘブル11:8
信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

そして、それが全世界の祝福の始まりでした。私たちは、そのように生きるべきなのです。祝福は「信仰による従順」から始まりました。それは、祝福を得る方法であって、いつの時代も変わることのない原則なのです。

その始まりは、はなはだ小さなものでした。

メソポタミヤに住んでいた一人の人が「引っ越した」というそれだけのことです。権力のある一国の王様が国を出て行くとなれば大騒ぎになるでしょう。しかし、アブラハムが移住しても大騒ぎにはなりません。

アブラハムが「私はカルデヤ人の地を出て見知らぬ土地に行く」と決めたとき、友人知人は「やめておけ」と言ったかもしれません。周囲の人は「物好きな冒険家」と呼んだかもしれません。しかし、それは大事件ではありませんでした。

けれど、主の御目には、それは大きな始まりでした。

同じことが、あなたにも言えます。

あなたの決断は、誰の目にも留まらない小さなことかもしれません。しかし、主の御目にはそうではありません。あなたが、どんな小さな事であっても「御声に聞き従う」という決断をしたことを、主は喜ばれるでしょう。

そして、それは、おそらく私たちが思っているより、ずっと大きいことなのです。その「信仰による従順」は、必ず、主の大きな御業につながると私は信じます。

イザヤ51:2
あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やしたのだ。

アブラハムを思い見よと、主は言われます。アブラハムただ一人が空の星、海辺の砂のようになったのです。人の及びもつかない大いなることが起こったのです。

その大いなることは、理由を聞かず「従った」一人の人がいたからです。アブラハムが従ったので、彼は祝福され、彼は増やされたのです。一人の「従順」が何をもたらすのかを、私たちはアブラハムを通して知ります。神様には、一人でも「従順」な人がいれば十分なのです。

エペソ1:19
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

神のすぐれた力は「信じる者」に働くのです。私たちは信じましょう。信じて従いましょう。そして、神の偉大な力がを見ることができるように心を尽くして求めましょう。

あなたは祝福そのものです

ゼカリヤ4:6
彼は私にこう答えた。「これはゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。

バビロン捕囚の後、神殿が再建されることになりました。そのとき、総督ゼルバベルの手にあったのは「重り縄」でした。垂直を確認する道具をもったゼルバベルを人々は笑ったのかもしれません。「神殿なんか再建できるものか」と思った人もいたでしょう。

しかし、主は言われます。

ゼカリヤ4:10a
誰が、その日を小さなこととして蔑むのか。

神殿の再建が始まった日、地面の垂直を測る小さなことから始まったその日、それは、決して小さな日ではなかったのです。

私たちは信じましょう。確かに、私の一歩は小さいです。「今日から早天祈祷をしよう」と決めたところで、その祈りのなんと小さなことかと思います。

しかし、主はその従順を決して小さいと蔑むことはなさいません。私たちは、信じて従えばよいのです。あとのことは、すべて、主のなさることです。

アブラハムがカルデヤのウルから出てきた日、それは歴史の中に埋もれてしまう「たった一日」でした。アブラハムには、世界を祝福する富はありませんでした。権力も能力もなかったのです。もちろん、世界を祝福する能力など誰も持ってはいません。

「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」

それは、すべて、ただ主によるものです。アブラハムは、カナンの地に入ったあと、それをとことん学ばされます。

彼はイサクを得るために忍耐を学び、自分の力に頼らないことを教えられ、主には不可能なことは一つもないことを知ります。

私たちが「献身」を表明するならば、おそらく、主は、私たちをも訓練されます。

どんな人も忍耐を学ぶのです。自分の力に頼らないことを教えられます。そうして、私たちは「神の偉大な力」を知ることになるのです。

あなたは「ウル」から出ることになるでしょう。アブラハムが「カルデヤ人のウル」から導き出されたのは「主との関係を深めるため」です。「主との関係を深める」ことを妨害するものから、あなたは切り離されることだろうと思います。

アブラハムの人生を「分離の人生」と言う人もいます。そうかもしれないなと私も思います。彼は、「ただ主お一人」と歩むために召されたのですから。ゆえに彼は「神の友アブラハム」と呼ばれるのです。

私たちは「神の友アブラハム」から多くのことを学ぶことができます。

「アブラハムを思い見よ」と主は言われます。それは、「アブラハムのようにしてあげよう」ということです。

アブラハムが、信仰によって義と認められたように、私たちもイエス様を信じるなら義と認められます。主は、アブラハムが失敗しても、アブラハムを通して祝福するという原則を変えられませんでした。

アブラハムの力は完全に失せてしまったけれど、聖霊によってイサクを授かりました。アブラハムは望み得ない時に望みを抱きました。

主は、あなたにも同じようにしてくださいます。ですから、私たちは信じましょう。そして従うのです。

私たちの人生は「主との関係を深める」ためのものです。主を仰ぎながら、主の偉大な御力を経験しながら歩めますように。アブラハムのように「神の友」と呼ばれる光栄にあずかることができますように。

今日、あなたが「主に従います」と告白したなら、その告白を、主は小さなものだとは思われません。その始まりが小さく見えても、あなたは祝福されています。そして、あなたこそ「祝福そのもの」です。

主を信じ従いましょう。そうして、あなたから「すべての祝福」があふれ出て、他の人が祝福されるように願います。

祝福を祈ります。