ローマ8:32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
理解を越えたことを実行されたのは御父です
アブラハムは本気でした。彼は、イサクに刃物を振り下ろそうとしていました。
アブラハムは、とても理不尽な命令を遂行しようとしていました。愛する「ひとり子」を全焼の献げ物とするつもりだったのです。
正義の神、愛なる神が「人をいけにえにせよ」と言われるなんて、理解できないし、絶対にあり得ないと私たちは思います。
ですから、「アブラハム、アブラハム、その子に手を下してはならない」という呼びかけを聞いて「ホッとする」わけです。
私たちは「やっぱりな」「そうでなくてはな」と思います。
主なる神が「自分の子」をいけにえに要求するなんてあるわけがない、そんな「人としての一線を越える」ようなことを求められるわけがないと納得するわけです。
けれど、覚えてください。
御父は「一線を越えられた」のだということを。
御父は、御子に要求されたのです。
「わたしが告げる地、モリヤの地に行って、全焼のささげ物となれ」と。
御子イエスは、従順にその命令に従われました。
ダビデが買い取り、ソロモンが神殿を建てた地こそ、アブラハムがイサクを連れて行った「モリヤの地」です。
そして、また、私たちの主イエスが十字架に架かられた地でもあります。
イエス様は、ご自身で「薪」の代わりに「十字架」を背負われ、一歩、一歩、苦しみの道を進まれました。
イエス様は「十字架」に架けられました。
御子イエスの上に、御使いの声は鳴り響きませんでした。
「その子に手を下してはならない」という声は聞こえなかったのです。
御父の「愛するひとり子」は「全焼のささげ物」とされました。
御父は「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された」のです。
私たちは、この方に従うのです。
誰が、御父に「あなたの要求は大きすぎる」と言えるでしょう。
私は、御父に「主よ、あなたの要求は理不尽です」と言うことはできません。
なぜなら、御父は「愛するひとり子を死に渡された」からです。
それこそ「大きすぎる犠牲」であり「最も理不尽な犠牲」でした。
私たちのために成された御業をあがめましょう。
主が、何を命じられたとしても、私たちは決して恐れる必要はありません。
どんなことが起ころうとも、決して怯える必要はありません。
目の前に見える現実が「祝福」とは反対に見えたとしても、それでも決して疑ってはなりません。
私たちの神は「ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神」なのです。
あなたのために成された御業を見なさい。
どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
御父は、すでに「一線を越えられた」のです。
今も、また、すべての「理解を越えて」くださいます。
父よ、あなたの愛を疑うことはできません
御子よ、あなたの苦しみを感謝します
御霊よ、どうか、神の愛をますます注いでください