No.364 「ひとり子」を死に渡されたのは御父です

夕日の山

ローマ8:32
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

理解を越えたことを実行されたのは御父です

創世記22:12
御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。

アブラハムは本気でした。彼は、イサクに刃物を振り下ろそうとしていました。

アブラハムは、とても理不尽な命令を遂行しようとしていました。愛する「ひとり子」を全焼の献げ物とするつもりだったのです。

正義の神、愛なる神が「人をいけにえにせよ」と言われるなんて、理解できないし、絶対にあり得ないと私たちは思います。

ですから、「アブラハム、アブラハム、その子に手を下してはならない」という呼びかけを聞いて「ホッとする」わけです。

私たちは「やっぱりな」「そうでなくてはな」と思います。

主なる神が「自分の子」をいけにえに要求するなんてあるわけがない、そんな「人としての一線を越える」ようなことを求められるわけがないと納得するわけです。

けれど、覚えてください。

御父は「一線を越えられた」のだということを。

御父は、御子に要求されたのです。

「わたしが告げる地、モリヤの地に行って、全焼のささげ物となれ」と。

御子イエスは、従順にその命令に従われました。

ダビデが買い取り、ソロモンが神殿を建てた地こそ、アブラハムがイサクを連れて行った「モリヤの地」です。

そして、また、私たちの主イエスが十字架に架かられた地でもあります。

イエス様は、ご自身で「薪」の代わりに「十字架」を背負われ、一歩、一歩、苦しみの道を進まれました。

イエス様は「十字架」に架けられました。

御子イエスの上に、御使いの声は鳴り響きませんでした。

「その子に手を下してはならない」という声は聞こえなかったのです。

御父の「愛するひとり子」は「全焼のささげ物」とされました。

御父は「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された」のです。

私たちは、この方に従うのです。

誰が、御父に「あなたの要求は大きすぎる」と言えるでしょう。

私は、御父に「主よ、あなたの要求は理不尽です」と言うことはできません。

なぜなら、御父は「愛するひとり子を死に渡された」からです。

それこそ「大きすぎる犠牲」であり「最も理不尽な犠牲」でした。

私たちのために成された御業をあがめましょう。

主が、何を命じられたとしても、私たちは決して恐れる必要はありません。

どんなことが起ころうとも、決して怯える必要はありません。

目の前に見える現実が「祝福」とは反対に見えたとしても、それでも決して疑ってはなりません。

私たちの神は「ご自分の御子をさえ惜しむことなく死に渡された神」なのです。

あなたのために成された御業を見なさい。

どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

御父は、すでに「一線を越えられた」のです。

今も、また、すべての「理解を越えて」くださいます。

父よ、あなたの愛を疑うことはできません
御子よ、あなたの苦しみを感謝します
御霊よ、どうか、神の愛をますます注いでください