ガラテヤ3:1
ああ、愚かなガラテヤ人、十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
パウロは嘆いています
パウロの嘆きと怒りが伝わってくるようです。
「ああ、愚かなガラテヤ人」
ガラテヤの教会は「愚か」になってしまいました。
彼らは「恵みによって信仰のゆえに」与えられた救いを「行い」によって継続させようとしていたのです。
パウロは、そのことを本当に「愚か」だと叱責しているのです。
彼らは「惑わされて」しまったのです。
「惑わす」と訳されている語は「目による魔法をかける」とも訳せます。「目」をじっと見つめて「暗示にかける」という魔術のようなものがあったのです。
デレク・プリンス師は「惑わし」とは「目を打つ」と言う意味だと言っています。
「惑わされる」と「十字架」を見ることができなくなるのです。
ガラテヤ教会の人々は「目を打たれて」真理を判別することができなくなっていました。
「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された」とは、以前の新改訳では「あなたがたの目の前にあんなにはっきりと示されたのに」と訳されています。
救いを受けたとき彼らはイエス様を見たのです。心の目で見たのです。
それは「はっきりと」見えました。
彼らの心の目には、生々しく「十字架の主イエス」が映し出されたのです。
彼らは「十字架の悩みは、わが罪のためであった」と心から告白して救いを得たのです。
しかし、今、彼らの目に「イエス様」は見えません。あんなにも「はっきり」と描き出されたお姿を彼らは見失ってしまったのです。
愛する兄弟姉妹。
「惑わされて」はなりません。「キリストの十字架」以外の方法を提示してくるなら、それは「惑わし」です。
あなたの目が「キリスト」を映し出せなくなっているのなら、あなたは「惑わされて」いるのです。
あなたの「目」は何に打たれて、主を見失ってしまったのでしょう。
あなたを、じっと見つめる「この世」と目を合わせてはなりません。私たちは「見つめるもの」に支配されるからです。
「救い」に信仰以外の条件をつけるすべてものを退けなさい。
あなたの「目」を決してイエス様から離してはなりません。
あなたの「目」を誰にも何にも「打たせて」はなりません。私たちは「魔法にかけられて」はならないのです。
救われたあの日のように「イエス様の姿」をはっきりと見ることができますか。
十字架を仰ぎ「あそこに私の罪がつけられたのだ」と確信した日のことを忘れてはなりません。
私たちは「恵みのゆえに信仰によって」救われたのです。それ以外に「義と認められる」方法はありません。
イエス様の流された血潮を感謝します
私は恵みのゆえに信仰によって救われました
私は、今日も、信仰によって歩みます