ローマ12:1
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
からだを献げなさいと言われます
「ふさわしい礼拝」とは、別訳では「霊的な礼拝」もしくは「理にかなった礼拝」です。
私たちにとって「ふさわしい礼拝」とは「霊的な礼拝」です。そして、それは「理にかなった礼拝」なのです。
「霊的な礼拝」とは「からだ」を「聖なる生きたささげ物」とすることです。「聖なる」とは「聖別された」ということです。「聖別」とは「神のために特別に取り分けられる」ということです。
私たちは自分のからだを「神のために特別に取り分ける」必要があります。
私たちは、まず、「神に対して生きている者」であることを認めなければなりません。それは、「霊とたましい」の領域だけではなく「からだ」もそうなのです。
私たちの「からだ」は、義の道具として神に献げるものです。それは、決して不義の道具とされてはならないのです。
私たちの主は「口先だけ」の愛を嫌われます。
使徒ヨハネは、兄弟姉妹を愛することについて語っています。けれど、これは神を愛することにも当てはまります。
「主よ、愛します」と告白するなら「行いと真実」が伴わなければなりません。
ある姉妹がバスに乗っていると、偶然、自分の教会の牧師と隣り合わせになったそうです。最近、礼拝に出席していなかった姉妹は、牧師に言いました。
「先生、礼拝に行けなくてごめんなさい。でも、私のからだは座っていませんが、心は毎週、座っていますよ。私の心は、いつも礼拝に参加しています」
言われた牧師はこう答えたそうです。「それは素晴らしい。だけど、来週は、ぜひ、からだも連れてきてくださいね」
礼拝には「からだ」も連れて行くのです。
あなたの「霊」はいつも聖霊様と一緒にいます。あなたの「たましい」は「主よ、ほめたたえます」と叫ぶでしょう。それならば、あなたの「からだ」も献げるのです。それこそ「理にかなった礼拝」だと思いませんか。「からだ」を置いてきぼりにしてはなりません。
私たちに「ふさわしい礼拝」とは、「からだ」を献げることです。「神に喜ばれる生きたささげ物」とすることです。
「生きた」ささげ物として、私たちは、日々を歩みます。あなたの言動の一つ一つが、礼拝となり得るのだということを忘れないでください。
私のからだは「生きたそなえ物」です。
私の手足は義の道具です。
私はすべてをもって主を愛します。