No.152 アブラハムは神の友です

湖の夜

創世記18:17
主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

主は、アブラハムに話されました

主は、ソドムとゴモラを滅ぼそうと思われました。

しかし、そのことを「アブラハムに隠しておくべきだろうか」と言われます。

主は、アブラハムに隠しておきたくないと思われたのです。アブラハムは「隠しておきたくない」と思わせる人であったのです。

ヨハネ15:15
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのかを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

友とは「知らせてもらえる人」のことです。

アブラハムは「神の友」でした。

創世記18:23
アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。

アブラハムは大胆に神に近づきます。そして、神と対話をするのです。

「もし50人の正しい人がいたなら」「もし30人いたなら」「もし10人いたなら」

アブラハムが、主に掛け合う姿を私たちは見ます。

しかし、これは、主がアブラハムを引き寄せておられるのです。

主はアブラハムとの対話を望まれたのです。

本当は「滅ぼしたくない」と思っておられるご自身の心をアブラハムに教えられたのです。

私たちの神は「心」を持っておられます。

神の似姿に造られた人がこんなにも「感情豊か」であるのに、その源である神に「感情」がないなんてことはあり得ないのです。

私たちが「神の友」となるなら、主はご自身の「心」を明かしてくださるでしょう。

アモス3:3(新改訳第三版)
ふたりの者は、仲が良くないのに一緒に歩くだろうか。

主は、ともに歩く人を求めておられます。

エノクのように、ノアにように、アブラハムのように、ダビデのように。

主は「友」を求めておられるのです。

一緒に歩くためには「仲良く」ならなければなりません。

「神の友」と呼ばれることは特権です。しかし、不可能ではありません。

主との親しい交わりは開かれているのです。聖所の幕は裂けました。至聖所への道は開かれています。

私たちは日々、キリストの血潮を携えて、御前に出ましょう。

主のそばで時を過ごしましょう。

主は、あなたにその「心」を知らせてくださるかもしれません。

主のそばにいることを求めます。
私は、主とともに歩みます。
主と親しくなれますように。