創世記18:17
主はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
主は、アブラハムに話されました
主は、ソドムとゴモラを滅ぼそうと思われました。
しかし、そのことを「アブラハムに隠しておくべきだろうか」と言われます。
主は、アブラハムに隠しておきたくないと思われたのです。アブラハムは「隠しておきたくない」と思わせる人であったのです。
友とは「知らせてもらえる人」のことです。
アブラハムは「神の友」でした。
アブラハムは大胆に神に近づきます。そして、神と対話をするのです。
「もし50人の正しい人がいたなら」「もし30人いたなら」「もし10人いたなら」
アブラハムが、主に掛け合う姿を私たちは見ます。
しかし、これは、主がアブラハムを引き寄せておられるのです。
主はアブラハムとの対話を望まれたのです。
本当は「滅ぼしたくない」と思っておられるご自身の心をアブラハムに教えられたのです。
私たちの神は「心」を持っておられます。
神の似姿に造られた人がこんなにも「感情豊か」であるのに、その源である神に「感情」がないなんてことはあり得ないのです。
私たちが「神の友」となるなら、主はご自身の「心」を明かしてくださるでしょう。
主は、ともに歩く人を求めておられます。
エノクのように、ノアにように、アブラハムのように、ダビデのように。
主は「友」を求めておられるのです。
一緒に歩くためには「仲良く」ならなければなりません。
「神の友」と呼ばれることは特権です。しかし、不可能ではありません。
主との親しい交わりは開かれているのです。聖所の幕は裂けました。至聖所への道は開かれています。
私たちは日々、キリストの血潮を携えて、御前に出ましょう。
主のそばで時を過ごしましょう。
主は、あなたにその「心」を知らせてくださるかもしれません。
主のそばにいることを求めます。
私は、主とともに歩みます。
主と親しくなれますように。