ルカ10:37
この三人のなかでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。
では、私の隣人とはだれですか?
律法の専門家は、自分の正しいことを示そうとして聞いたのです。
彼は、律法を知っていました。そして、正しく理解していたようです。
彼の理解は正しいとイエス様は言われました。しかし、彼は、その正しい理解を実行して生きてはいませんでした。
みことばの理解は正しくても、御心を生きることができないということはあり得るのです。
律法の専門家は「では、私の隣人とはだれですか」と聞きました。
しかし、イエス様は「良きサマリア人」の話をされた後で言われました。
「だれが隣人になったと思いますか」
イエス様は「隣人になったのはだれか?」と言われたのです。
律法の専門家は「隣人」を見つけようとしましたが、イエス様は隣人には「なる」ものだと言われたのです。
強盗に襲われ、殴りつけられ、倒れている人を見て見ぬふりをした「祭司」や「レビ人」に神様と同じ心はありませんでした。
祭司たちにはおそらく「反対側」を通り過ぎていく「立派な」理由があったのでしょう。汚れたくなかったのかもしれません。
私たちは、時々間違います。
何が「正しい」ことで、どうすることが「正解」なのかと考えてしまします。
「善」か「悪」で物事をとらえてしまうのです。
しかし、私たちの行いは「愛」から生じるものでなければなりません。
サマリア人は、倒れている人を見て「かわいそう」に思ったのです。そして、その「あわれみの心」が立場を越えた行いを生み出したのです。
私たちの神は「あわれみ深い神」です。主は、あわれみで満ちておられます。
イエス様も群衆を「かわいそう」に思われて、奇跡のわざを行ってくださいました。
主とともにいる人には、「キリストの心」があるのです。
私たちは「キリストの心」を持っています。
隣人には「なる」のです。
通り過ぎてはなりません。
私は「キリストの心」を持っています。
私は隣人になります。
主のあわれみで満たしてください。