No.111 隣人には「なる」のです!

隣人

ルカ10:37
この三人のなかでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。

では、私の隣人とはだれですか?

律法の専門家は、自分の正しいことを示そうとして聞いたのです。

ルカ10:29
しかし彼は、自分の正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」

彼は、律法を知っていました。そして、正しく理解していたようです。

ルカ10:26~27
すると彼は答えて言った。「『あなたは心を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」とあります。」
イエスは、言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

彼の理解は正しいとイエス様は言われました。しかし、彼は、その正しい理解を実行して生きてはいませんでした。

みことばの理解は正しくても、御心を生きることができないということはあり得るのです。

律法の専門家は「では、私の隣人とはだれですか」と聞きました。

しかし、イエス様は「良きサマリア人」の話をされた後で言われました。

ルカ10:37
この三人のなかでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。

「だれが隣人になったと思いますか」

イエス様は「隣人になったのはだれか?」と言われたのです。

律法の専門家は「隣人」を見つけようとしましたが、イエス様は隣人には「なる」ものだと言われたのです。

強盗に襲われ、殴りつけられ、倒れている人を見て見ぬふりをした「祭司」や「レビ人」に神様と同じ心はありませんでした。

祭司たちにはおそらく「反対側」を通り過ぎていく「立派な」理由があったのでしょう。汚れたくなかったのかもしれません。

私たちは、時々間違います。

何が「正しい」ことで、どうすることが「正解」なのかと考えてしまします。

「善」か「悪」で物事をとらえてしまうのです。

しかし、私たちの行いは「愛」から生じるものでなければなりません。

ルカ10:33
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。

サマリア人は、倒れている人を見て「かわいそう」に思ったのです。そして、その「あわれみの心」が立場を越えた行いを生み出したのです。

私たちの神は「あわれみ深い神」です。主は、あわれみで満ちておられます。

ルカ6:36
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。

イエス様も群衆を「かわいそう」に思われて、奇跡のわざを行ってくださいました。

主とともにいる人には、「キリストの心」があるのです。

Ⅰコリント2:16
「だれが主の心を知り、主に助言すると言うのですか。」しかし、私たちはキリストの心を持っています。

私たちは「キリストの心」を持っています。

隣人には「なる」のです。

通り過ぎてはなりません。

私は「キリストの心」を持っています。
私は隣人になります。
主のあわれみで満たしてください。