イザヤ30:15
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。
主には時があるのです
「私は子を得られるでしょう」とは、直訳すると「子を造り上げられるでしょう」となります。
私たちは「約束の成就」を熱心に求めるあまり、主の「時」を待つことができなくなってしまうことがあります。
現実問題として、サライは「不妊」でした。サライ自身、自分が子を産むことを諦めてしまいました。
それでも「約束の子」を「求める心」は失っていませんでした。サライは「約束そのもの」を諦めたわけではないのです。
しかし、現実をみつめたとき、サライは「焦り」を覚えずにいられなかったでしょう。このままでは、決して「子」を得ることはできまい、私が「何とかせねば」と思ったのでしょう。
「肉の思い」は、いつも人に「何とかしないとね」というのです。そして、サタンは、そこにつけ込み「急がないと間に合わないぞ」と脅してくるのです。
肉はいつも動いていようとするし、サタンはいつも人を急かします。
ゆえに、主は言われるのです。
私たちは「主の約束」を疑ってはいないでしょう。主は「約束を守られる」と信じているでしょう。
ただ、私たちは「主の方法」「主の知恵」に信頼してないだけです。「主の時」を待つことができないだけなのです。
私たちは、そろそろ、それこそが「不信仰」であることを認めなければなりません。
約束を「自分で成就しようとする」のは、なぜでしょう?
自分で「子を造り上げようとする」のは、なぜでしょう?
「時」の中で生きている私たちは、「時」を意識するあまり「焦り」を覚えるのです。
私たちは「もう時間がない」と思うので「焦る」のです。
肉の声を聞くのはやめましょう。
そうすれば「何とかしないと」とは思わなくなります。そうすれば「急がないと間に合わないぞ」というサタンの脅しに屈しなくなります。
「約束」は、主が成就されます。主が「主の方法」で「主の時」にすべてを成就してくださいます。
私たちは「時」を支配しておられる方に信頼します。私たちの力が失われていくことを、主はご存知です。
知恵と力は神のものです。季節と時を変えられるのは神です。
私たちは、ただ「静かにして信頼すれば」よいのです。「立ち返って落ち着いて」いればよいのです。
私は主に信頼します
時は御手の中にあります
静かにして信頼して、主の救いを見ます