No.204 静かにして信頼します

湖とベンチ

イザヤ30:15
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

主には時があるのです

創世記16:2
サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

「私は子を得られるでしょう」とは、直訳すると「子を造り上げられるでしょう」となります。

私たちは「約束の成就」を熱心に求めるあまり、主の「時」を待つことができなくなってしまうことがあります。

現実問題として、サライは「不妊」でした。サライ自身、自分が子を産むことを諦めてしまいました。

それでも「約束の子」を「求める心」は失っていませんでした。サライは「約束そのもの」を諦めたわけではないのです。

しかし、現実をみつめたとき、サライは「焦り」を覚えずにいられなかったでしょう。このままでは、決して「子」を得ることはできまい、私が「何とかせねば」と思ったのでしょう。

「肉の思い」は、いつも人に「何とかしないとね」というのです。そして、サタンは、そこにつけ込み「急がないと間に合わないぞ」と脅してくるのです。

肉はいつも動いていようとするし、サタンはいつも人を急かします。

ゆえに、主は言われるのです。

イザヤ30:15
イスラエルの聖なる方、神である主はこう言われた。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたはこれを望まなかった。

私たちは「主の約束」を疑ってはいないでしょう。主は「約束を守られる」と信じているでしょう。

ただ、私たちは「主の方法」「主の知恵」に信頼してないだけです。「主の時」を待つことができないだけなのです。

私たちは、そろそろ、それこそが「不信仰」であることを認めなければなりません。

約束を「自分で成就しようとする」のは、なぜでしょう?

自分で「子を造り上げようとする」のは、なぜでしょう?

「時」の中で生きている私たちは、「時」を意識するあまり「焦り」を覚えるのです。

私たちは「もう時間がない」と思うので「焦る」のです。

肉の声を聞くのはやめましょう。

そうすれば「何とかしないと」とは思わなくなります。そうすれば「急がないと間に合わないぞ」というサタンの脅しに屈しなくなります。

「約束」は、主が成就されます。主が「主の方法」で「主の時」にすべてを成就してくださいます。

私たちは「時」を支配しておられる方に信頼します。私たちの力が失われていくことを、主はご存知です。

知恵と力は神のものです。季節と時を変えられるのは神です。

出エジプト14:14
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。

私たちは、ただ「静かにして信頼すれば」よいのです。「立ち返って落ち着いて」いればよいのです。

私は主に信頼します
時は御手の中にあります
静かにして信頼して、主の救いを見ます