ヘブル10:19
こういうわけで兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
主イエスの血によってのみ聖所に入れます
聖なる神に近づく方法は唯一です。
私たちは「犠牲の血によってのみ」聖なる神に受け入れられるのです。
主が、カインのささげ物に目を留められなかったのは、そこに「犠牲の血」が無かったからです。
カインが「激しく怒り、顔を伏せた」のは、自分の労苦が認められず、自分の思いが顧みられなかったからです。
私は、定期的にこの聖書箇所を思い返します。そして、自分がカインと同じ過ちを犯していないかを確認します。
私たちは、時々、主の恵みに慣れ過ぎてしまうのです。そして、自分がなぜ受け入れられているのかを忘れてしまうのです。
私たちが受け入れられるのは、聖書を読んでいるからではありません。毎日、祈っているからでもありません。もっと言えば、礼拝をささげているからでもないのです。
私たちは、ただ「イエスの血によって」のみ聖所に入ることができます。
愛する兄弟姉妹。
私たちは決して自分の労苦によって、神に近づくことはできないのだと覚えておかなければなりません。
私は、時々、「そんなにも愚か」になってしまうのです。
祈ること、学ぶこと、礼拝することは素晴らしいことです。けれど、私たちは自分の奉仕に目を留めてはなりません。
「今週は、毎朝、早く起きれている。毎朝、聖書を読んでいる。いいぞ、私、その調子だ」と喜んでいるならば、きっと、次の週は寝坊して落ち込んでしまうでしょう。
「今週は、うまく賛美できた。素晴らしい良い礼拝だ」と満足するなら、風邪をひいてガラガラ声の日の自分にはガッカリしてしまうでしょう。
私たちは「自分の良いと思うもの」をささげてしまうことがあるのです。それは、主に「良きもの」をささげたいという動機から発生しているかもしれません。
けれど、私たちは、自分が思う「良きもの」で聖なる神に近づくことは、決して出来ないのです。
「私は、もっと近づきたいのです。だから頑張りたいのです。でも、続かないのです」
そんなふうに自分に失望したり落ち込んだりすることはありませんか?
「なぜ、主は、私をもっと引き上げてくださらないのだろう。祈りが足りないのかしら、それとも、もっと賛美するべきかしら」
そう思うことはないですか?
自分の良いと思うことを、主に押し付けても、それが受け入れられることはありません。そんなことをいくら続けても、カインのように「怒り、顔を伏せる」という結果を生むだけです。
私たちが、主に近づくための条件はただ一つ「イエスの血」のみです。
行き詰ったときは原点に立ち戻ります。
「イエス様の血によって、私は受け入れられています」と告白します。「イエスの血」を携えて、私たちは聖所に入ります。御父は「イエスの血」によって近づく者を拒まれることはありません。
カイン式礼拝には要注意です。
覚えてください。
私たちは「イエスの血によって」受け入れられているので、賛美をささげるのです。「イエスの血によって」受け入れられているので礼拝できるのです。
「イエスの血によって」のみ聖所に入れるのです。
私たちの奉仕は、恵みによる結果であることを忘れないでください。
私は「イエスの血」によってのみ御前に出ます
私は「イエスの血」によって聖所に入ります
イエス様の流された血潮のゆえに感謝します