No.465 目に見えない方を見ているようにして歩みます

見えないものを見る子

ヘブル11:27
信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトから立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。

信仰によってモーセは…

モーセは「目に見えない方を見ているようにして」忍び通したと聖書は言います。

私は、この箇所がとても好きです。なぜなら、モーセをとても身近に感じるからです。

モーセも「見えていたわけではない」ということが分かるからです。

主の御姿が見えればいいのになと思ったことがあります。あまりにも導きが分からなくて「空に雲で行き先を書いてくれませんか」と本気で祈ったこともあります(笑)

私は「見ない方」を「見よう」としていたわけです。それは「信仰者の歩み方」ではありません。

モーセは「見えない方を見ているようにして」歩んだのです。これが「信仰者の歩み方」です。

モーセも「見えていた」わけではないのです。「見ているようにして」忍び通したのです。

「見えていない」ことにおいては、モーセと私は同じです。つまり、私も「見えているようにして」歩むことができるということです。そして「顔と顔を合わせて語る」と言われるほど近しくなれるということです。

私たちの神は「不滅で目に見えない唯一の神」です。「見えない」ことこそ「神の本質」なのです。

主は、私に「視覚」ではなく「信仰」によって歩んで欲しいと望んでおられるのです。

目に見えるものが「すべて」ではないことを学んで欲しいと望んでおられるのです。

Ⅱコリント5:7
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

私は、信仰によって歩んでいるでしょうか。

多くの場合、私は「見えるもの」によって歩んでいることを認めざるを得ません。

私は「見えるもの」「感じるもの」によって歩んでいることが多いのです。

「見えない方」と親しくなりたいと願うなら「見えるもの」に縛られてはなりません。

サタンは「見えるもの」で私たちを誘惑します。「見えるもの」で恐れさせます。サタンは、私たちの「肉」に働きかけるのです。

Ⅱコリント10:3
私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。

私たちは「肉に従って」歩むことはしません。私たちは「信仰」によって歩みます。

「信仰」によって、私たちもモーセのように歩むことができます。

ファラオの憤りを恐れず、エジプトから立ち去ることができます。私たちは、この世を後にして、もう再び、戻ることはありません。

「信仰」によって、私たちも「見えない方を見ているようにして、忍び通す」ことができるのです。

そして、「見えない方を見ているようにして」ご臨在のうちに憩うこともできるのです。

私は「見えない神」を信じます
主は、今、ともにおられます
私は信仰によって歩みます