レビ記1:1
主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。
それは礼拝への招きです
ヘブル語聖書は、各書物を「各書の最初のことば」で呼んでいます。つまり「書き出しのことば」がその書の呼び名となるわけです。
レビ記の書き出しは、ヘブル語聖書では「そして、呼び寄せ」です。
「そして」ということばは、この書が「出エジプト」からの続きなのだということを思わせます。
「出エジプト記」の終わりでは、イスラエルの人々が「幕屋」を完成させています。
イスラエルの真ん中で「主の栄光」が満ちたのです。雲が「幕屋」のその上にとどまっていました。
それは素晴らしい光景でした。
しかし、同時に、とても厳粛で恐ろしい光景でもありました。
モーセでさえ天幕の中に入ることはできませんでした。
私たちは「神の恵み」を語ります。「神は愛です」と宣言します。もちろん、そうなのです。私たちの神は「恵み深い方」です。主は「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。
しかし、私たちは覚えていなければなりません。
神は、愛であると同時に「聖なる方」であるということを。その「聖なること」には「恐ろしさ」が伴っているのだということを。
誰でも「自分勝手な方法」で神に近づくことはできないのです。
けれど、私たちは、主が「そして、呼び寄せ」られるのを見ます。
主が「モーセを呼ばれた」のです。
主が、人に「ご自身の幕屋への道」を示されたのです。
主は「そして、呼び寄せ」られます。
創世記には、人間が破滅しているのが見られ、出エジプト記には、人間が贖われるのが見られ、レビ記には、人間が礼拝しているのが見られる。
旧約聖書の概説 ヘンリエッタ・C・ミアーズ著 聖書図書刊行会
レビ記には「贖われた人が、どのようにして聖なる神に近づくのか」という方法が示されています。
レビ記は「礼拝の手引書」です。
レビ記には「ささげ物」の規定だけではなく「生活に関する規定」も多く記されています。
それは「生き方自体」が「聖別」される必要があるということです。つまり、私たちの「生き方」も「礼拝」なのだということです。
「贖われた者たち」は、みな、主を礼拝するのです。
主は、あなたのことも「そして、呼び寄せられた」のです。
あなたが贖われたのは「自分勝手に生きるため」ではありません。
あなたは「呼び寄せられた方」に応答して生きるように召されているのです。
つまり「礼拝」に招かれているのです。
「自由」を履き違えてはなりません。「愛」とは「何でもよい」という意味ではありません。「愛しているなら、どんなふうに礼拝してもかまわない。動機が大切なのだ」というのは間違いです。もちろん「動機が愛」であることは大前提ですが「どんな方法でも良い」ことは決してありません。
愛は「礼儀に反しない」のです。また「自分の利益を求め」ません。礼拝をささげるときに「礼儀に反する」ことはできません。またそこに「自分の利益を求め」てはなりません。
主が示してくださる「礼拝への道」があるのです。
主は、あなたを「礼拝」へと招いておられます。
聖なる御名をあがめます
主が礼拝を教えてくださることを感謝します
主の招きに応じる者としてください

