Ⅰテサロニケ1:3
私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。
望みに支えられた忍耐が必要なのです
私たちの持っている「希望」は「たましいの錨」です。(「希望」と「望み」は、原語では同じ言葉です)
「錨」とは、船が流されないための「重り」のことですね。
つまり「希望」は、私たちの「たましい」が流されないための「重り」なのです。
私たちを支えるのは「主イエス・キリストに対する望み」です。
「主イエス・キリストに対する望み」は、私たちが「忍耐」することを支えるものです。
「主イエス・キリストに対する望み」とは、もちろん、再臨の望みのことです。
私たちは、その望みによって、前を向いて歩むことができるのです。
そして、イエス・キリストに対する望みとは、それだけではありません。
私たちは、イエス様が「とこしえに変わらない」ことに対して「望み」を置くことができます。
イエス・キリストは、とこしえに変わることがありません。私たちの「救い」は消え去ることはありません。私たちの「望み」は失われることがないのです。
もしも「もう耐えられない」と思うことがあるのなら、あなたは「錨」を投げ入れなければなりません。
自分で自分を叱咤しても「忍耐」は生まれません。
私たちの「忍耐」は支えられなけばならないのです。
「耐えられない」と感じたときには、「望み」を心に投げ入れなさい。
「イエス・キリストに対する望み」を「錨」とするのです。
イエス様が語られた多くの約束を、一つ一つ、投げ入れるのです。
その「望み」が、あなたを支えてくれるでしょう。
「望み」によって、あなたは押し流されず立ち続けることができるのです。
私は「イエス・キリストに対する望み」を持っています
私の望みはイエス様ご自身です
私は、決して失望に終わることがありません