ルカ15:31
父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
放蕩息子の兄には不満がありました
放蕩息子のたとえ話は有名ですね。
生前贈与を受けた弟息子は、何もかも使い果たしてボロボロになって実家に戻ります。
「雇い人の一人にしてください」と言う弟息子を、父親は抱きしめ、上等の服を着せ、指輪を与え、子牛を屠って盛大に祝います。これは「恵み」です。
弟息子は、父親のはかりしれない恵みを受けました。
しかし、それを知った兄息子は、怒りにかられて言うのです。
兄息子は、立派な人でした。真面目にコツコツ働く人でした。父親にもよく仕え、おそらく我がままなんて言ったこともなかったのでしょう。
弟息子が「お父さん、財産を先にください」とねだっているのを、いまいましいと思いつつ、心のどこかでうらやましいと思っていたのかもしれません。
兄息子は「恵み」を見失ってしまった人の型だと言えます。
あなたは、真面目に教会に通っているかもしれません。聖書も読んでいます。奉仕もしています。
けれど、なぜか心に喜びがありません。
自分より不真面目な聖徒が、自分より恵まれているように見えます。
そして、なんとなく、父なる神との距離を感じてしまうのです。
父親が兄息子に言ったことばを聞いてください。
父親と「いつも一緒にいる」のは誰でしょう。
それは、実家を出て遊び歩いていた弟息子ではありません。弟息子は「戻って来た」ので、これからは父親とずっと一緒にいるでしょう。
しかし、父と「いつも一緒にいて、今も一緒にいる」のは、ずっと実家にいた兄息子なのです。
父親は兄息子に言います。
「私のものは全部おまえのものだ」と。
恵みは、いつも兄息子のすぐそばにあるのです。「求め」さえすれば、自分が恵みに囲まれていることを感じることができたでしょう。
チャールズ・スポルジョンは「あなたの神に遠慮してはならない」と言いました。
あなたはどうでしょう?
あなたの御父に遠慮する必要はありません。
「仕えて来た」ということと引き換えにではなく「子ども」として願いなさい。
「天上にあるすべての霊的祝福」は、すでに注がれています。私たちはすでに「祝福された」のです。
かしこまらずに、ただキリストの血だけをたずさえて「天のお父様」と呼んでご覧なさい。
遠慮せずに、子どもとして駆け寄ってご覧なさい。
主は、あなたを恵もうと待っておられます。あなたをあわれむために駆け寄って来てくださるでしょう。
天のお父様、あなたの恵みを感謝します
あなたは決して私を拒まれません
恵みに取り囲まれていることを実感させてください

