No.222 私は、主の光の中を歩み、主に同意します!

可愛い赤ちゃん

Ⅰヨハネ1:9
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

罪を告白するのは主が正しいことを認めたからです

私たちは「神が正しい方」なので「罪を告白」するのです。前の新改訳では「言い表す」と訳されていました。

「告白する」「言い表す」と訳される言葉は「同じことを言う」「同意する」「白状する」「認める」などと訳すこともできます。本来は「同じことを言う」と言う意味です。

つまり「告白」とは「神様と同じ意見です」「主に同意します」と言うことなのです。

私たちは罪を犯したと「感じた」時に、その罪を言い表します。主の御前に「告白」するわけです。

しかし、もし自分自身に目を向けた「告白」であるなら、おそらくその「告白」は「謝罪」でしかないでしょう。

「私が悪かった」ので「謝る」ことが告白であると思っているなら、それは大きな勘違いです。

「ああ、神様、私は罪を犯しました。悪いことをしました。赦してください」

そのように私たちは「謝り」ます。しかし、主が求めておられるのは「謝罪」ではなく「同意」です。

私たちは罪を犯したと「感じた」ときに言い表しますが、私たちが罪だと「感じない」ならば「すべて主のみこころにかなっている」ということなのでしょうか?

悪いと「思った」ことだけが「罪」であって、悪いと「思わなければ」罪ではないのでしょうか?

それでは「同意」しているのは、いったいどちらなのでしょう。

それでは私たちが、主に「同意」を強要しているのと同じなのです。私たちは、言葉遣いは丁寧かもしれませんが、主から「赦し」を奪い取っているのです。

「主よ、私は罪を犯しました。悪いことをしたと思っています。言い表しましたから赦してくださいますね」

そう言っているのと同じなのです。

あなたが罪だと「感じる」か「感じないか」は罪の基準ではありません。「主のみことば」「主の御思い」に反することはみな「罪」なのです。

イザヤ53:6
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

イエス様が負ってくださったのは何でしょう。イエス様は「私たちの咎」を負ってくださいました。「私たちの咎」とは何でしょう。それは、「自分勝手な道に向かって行った」ことです。

イザヤ53:8
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きの罪のゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

イエス様は何のために打たれたのでしょう。それは「背きの罪」のためです。主は、「背いた者」のために打たれ、絶たれたのです。

私たちの罪は「背き」です。「自分勝手」つまり「自己中心」です。

私たちは「告白」さえも「自分勝手」にしてしまうのです。

自分の中をどれだけ探ったとしても、自分が納得するまで痛めつけたとしても、それで「きよめられる」ことはありません。

Ⅰヨハネ1:7
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを保ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

自分でゴソゴソと探るのはやめて「光の中へ」行きましょう。主が照らしてくださる「染み」や「傷」に「同意」すればよいのです。

そうすれば「御子イエスの血」が私たちをきよめてくださいます。

イエス様の血によりきよめられることを感謝します
私は、主の光のうちを歩みます
聖霊様に導かれて歩みます