黙示録3:18
わたしはあなたがたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。
見えなくさせる原因は高慢です
イエス様は、ラオディキアの教会に「忠告する」と言われました。
彼らに「3つのもの」を買うように言われたのです。
前回までで、そのうちの「2つ」を学びました。
今回は残りの一つ「目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい」と言われたことについて学びたいと思います。
ラオディキアの町は「3つのもの」で有名でした。「金融」と「繊維産業」と「薬」です。
ラオディキアの町には「薬科大学」があったと言われています。ラオディキアは「薬の町」として知られていました。
特に「目薬」には定評がありました。
ラオディキアで製造される「目薬」は「フルギヤ・パウダー」と呼ばれる粉末状の薬で「ものもらい」などに効果があったようです。現在の目薬とは違い「塗って」使用するものでした。
さて、前回から何度も同じ聖句を呼んでいますが、今回もまた黙示録3章17節を読みたいと思います。
何度読んでも、心刺されるみことばです。
ラオディキアの教会は「実は、盲目だ」と言われています。
つまり、彼らは「自分は見えていると言っているけれど、実際は見えていない人たち」であったのです。
彼らは「見えている」と思っていました。
しかし、彼らは何をもって「見えている」と思っていたのでしょう。
そして、イエス様は、何をもって「見えていない」と判断されたのでしょう。
私たちは「見えて」いるでしょうか。それとも「見えていない」でしょうか。
「心の目がはっきり見えるように」なりたいと私は望みます。
「見える者」となるために「見えない原因」について一緒に学んでいきましょう。
「見えていない人」の代表的な人物を、イエス様はたとえ話を通して教えてくださいました。
祈るために宮に上って来た「パリサイ人と取税人」のたとえ話です。
パリサイ人の祈りは、このようなものでした。
パリサイ人は、自分こそ「神に受け入れられている」と考えている人です。
彼は、堂々と宮に来て「感謝します」と言っています。
しかし、実際に受け入れられたのは「あわれみを請うた取税人」の方でした。
「パリサイ人」は「自分は正しいと確信していて、ほかの人を見下している人たち」の代表です。
つまり「高慢な人」の代表です。
そして、この「高慢」こそが、私たちの「目を見えないようにする最大の原因」なのです。
このパリサイ人は「見えていない人」です。
彼は「自分は神に受け入れられる。けれど、この取税人は受け入れられない」と確信していました。
しかし、実際に受け入れられたのは「取税人」だとイエス様は言われました。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人を見下している人」には、「神のみこころ」を見ることができません。
これは「自分は富んでいる。豊かになった。足りないものは何もない」と言っているラオディキア教会の姿です。
そして、「知ったつもり」になっている私の姿でもあります。
「高慢」は「高く上げられた自分」を見ます。それは「幻影」です。
「高慢」は「実はみじめである」という本当の姿を見ることができないのです。
高慢は「行い」ではありません
このたとえ話のパリサイ人は、微塵も疑っていません。自分は「正しく生きている」と確信しています。
そして、本当に彼は「正しい人」です。「立派な人」です。彼の「生き方」に間違いはありません。
イエス様は、彼の「生き方」を否定してはおられません。
彼の「考え・思い」について語っておられるのです。
「高慢」とは「行い」のことではありません。
もちろん「高慢」があふれ出て、実際の「行い」に現れている人もいます。
しかし、たいていの場合「高慢」は、心の中に「ひっそりと隠されている」ものです。
実際、自分にさえ「分からない」ことがあるものです。
たとえ話のパリサイ人を、もう一度、見てください。
パリサイ人は言います。
「神よ、感謝します」と。
彼は、宮の中で、神の御前に「感謝」をささげているのです。
彼は「自分の人生は神様のおかげで良いものです」と言っているのです。
しかし、その言葉の中に「自己称賛」の思いが含まれているのが見てとれます。
神様に「感謝」しながら、自分の「行い」を誇り、他人と比較し、人を見下げ、自分を上げているのです。
私たちは、あからさまに「このような祈り」をすることはないでしょう。
しかし、感謝のうちに、賛美のうちにさえ「高慢」が入り込むことは誰にでも起こり得ることなのです。
神の宮で自分が最も聖なる場所にいると考えているとき、高ぶりに注意しましょう。~中略~
私たちが自我の満足の根拠を見つけるのは、感謝すべき正当な事由の中や、神にささげる感謝の中においてであったり、神がすべてをなさったというその告白の中においてですらあるのです。そうです。宮の中で、懺悔と神のあわれみに対する信頼のことばだけが聞かれるときでさえも、パリサイ人は、賛美をし感謝をしながら、自分に向かって祝福のことばを述べているかもしれないのです。
謙遜 アンドリュー・マーレー著 いのちのことば社
「祝福」の根拠が「行い」にあると、私たちは「考えていないつもり」です。
しかし、どこかで「行いの原理」に生きている自分がいることを認めざるを得ません。
誰かに「称賛」されるとき「主をほめよ」と言いながら、少し「誇らしく」思います。
そして、誰かに「批判」されたなら「主をほめよ」とは言えません。ただ「落胆」し「苦々しく」思います。
「頑張ったから、当然の結果だ」と思います。
「あの人は頑張ってないから、残念な結果だ」と思います。
もし、それが「くつがえされたなら」心がモヤモヤするのです。
「どうして、頑張って従順に生きている私がダメで、明らかに不従順なあの人が良い結果なのか」と腹が立ちます。悲しくなります。そして、主の愛を疑います。
そうです。それがサタンの策略なのです。
「神の愛」を疑わせることが目的なのです。
「高慢」は、サタンが吹き込むことを覚えてください。
エバに「神のようになりたくないの?」とささやいたのは「古い蛇」ではありませんか。
「恵み」から目をそらせると「高慢」が入り込みます。
「いのちの御霊の原理」に生きなければ、私たちはすぐに「行いの原理」に戻ってしまいます。
戦いは「思い」の中で起こっています。
「高慢」は「行い」に現れる前に「思い」の中に育まれるのです。
主は「思い」を見られます。「思い」の中の「高慢」に警告を鳴らしてくださいます。
サタンは「思い」の中の「高慢」を育てて「落ちた」のです。
サタンは「心の中で言った」のです。つまり「思った」のです。
「高慢」は、まず「思い」の中に芽吹くのです。
確かにサタンは賢いのです。策に長けています。うまく立ち回ることができます。
しかし「賢い」ことと「見ることができる」こととは違います。「高慢は知性を腐らせ」ます。サタンの知性は「腐って」いるので、本当に「知るべきこと」を知ることはできません。
「高慢」な者には「イエス様の十字架」は理解できません。
サタンは、主イエスの御業を知ることができませんでした。もし、イエス様の十字架の死が「何をもたらすのか」を知っていたなら、全力で阻止したことでしょう。
神の知恵は「知恵のある者や賢い者には隠されて」いるのです。
「自分は富んでいる。足りないものはない。知っている。分かっている」と言う者には「隠され」ます。彼らには「見ることができない」のです。
しかし、主は「幼子たち」には明らかにしてくださいます。
「自分では何もできない幼子」には「キリストの十字架」こそ「神の力、神の知恵」であることが啓示されるのです。
愛する兄弟姉妹。
私たちには「たった一つの見るべきこと」がすでに啓示されています。
私たちは、イエス様が十字架に架かり、罪のために死んでくださったことを信じています。
また、私たちが義と認められるために復活されたことを信じています。
福音は、救いをもたらす「神の力」です。
私たちには「神の力」が注がれているのです。
世の中にあって「見えない」と言われることに怖気づいてはなりません。
上手く立ち回れないことを嘆く必要はありません。
この世の君は、きっと言うでしょう。
「もっと賢く生きる方法があるのに」
「そんな愚かなことをしていたら世の中ではやっていけないよ」
「先を見越して、上手く立ち回るようにしないと」
そのような「思い」が吹き込まれても、動揺する必要など少しもありません。
「引き下がれ、サタン。私には、奥義のうちにある、隠された神の知恵があるのだ。主イエスの御名によって、立ち去れ」
そう言えば良いのです。
「隠された神の知恵」は、今、明らかにされています。
それは「御霊によって啓示」されています。自分の知恵では、決して悟ることはできません。
それが「みこころにかなったこと」なのです。
高慢になる原因は「寄留者」であることを忘れたからです
ラオディキアの教会は「高慢」になっていました。ゆえに「実は、盲目だ」と言われたのです。
何が聖徒を「高慢」にするのでしょう。
なぜ、イエス様を信じてると告白しながら「高慢」になってしまうのでしょう。
ラオディキア教会が「高慢」になった原因は「持っている」と思ったからです。そして、そこに「満足して留まったから」です。
「富んでいる」こと「豊かなこと」そのものが「罪」ということはありません。
アブラハムは、商売上手な「お金持ち」でした。ダビデは、神殿のために数えきれない「最高の材料」を集めることができた王様でした。
ですから「富んでいる」ことが、常に「高慢」につながることはないのです。
ただ「富んでいる」ならば「富」に頼りやすくなってしまうことは確かにあるだろうと思います。
アブラハムやダビデは、「失う」ことを経験しています。また「得る」ことも知っています。
彼らは、様々な試練の中で「頼る方は唯一である」ということを学んだのです。
彼らに共通しているのは「自分は寄留者である」という思いです。
ダビデは言っています。
ダビデは、自分たちのことを「寄留者であり、居留している者」と言いました。
ヘブル書の著者は、ダビデの言う「父祖たち」について語っています。
アブラハムたちが「天幕生活」をしたのは、約束の地であっても「地上」は、本当の「故郷ではない」ことを知っていたからです。
彼らは「地上では旅人であり、寄留者である」と告白していました。
さあ、何が聖徒を「高慢」にするのかを正直に見つめてみましょう。
それは「世と世にあるものを愛する心」です。少し言い換えるならば「自分が旅人であり寄留者であることを忘れてしまうから」です。
私たちの「心の望み」は何でしょう。私たちは「何に憧れて」「何を欲して」生きているでしょう。
旅人は、いつか「故郷」に戻ります。私たちは、いつまでも寄留者ではありません。しかし、今は「旅人」です。今は「寄留者」です。
信仰の父祖たちが「憧れていた」のは「天の故郷」でした。
私たちは「天の故郷」に憧れを抱いているでしょうか。
ラオディキア教会の聖徒は、恐らく「天の故郷」への憧れを失くしてしまったのでしょう。
「この世」は、彼らにとって「快適」でした。
彼らは「何も足りないことがない」ことに満足していたのです。
愛する聖徒たち。
聖徒は、主にあって「満たされて」います。
けれど、常に「うめいて」もいるのです。
天から与えられる住まいを「切望」する心を失ってはなりません。
私たちは「神が設計され、神が建設された都」を切望しています。そこにおられる「慕わしい方」と永遠に住まう都を切望しています。
この「切望」こそ「望み」です。私たちは「この望みとともに救われた」のです。
ラオディキアの教会は「目で見ているもの」で満足していました。
ゆえに、彼らの「霊の目」は閉ざされて「見えないものを望む力」つまり「信仰」を失ったのです。
覚えてください。
「天の故郷」への憧れを失うなら「信仰」も失います。
「永遠のいのち」こそ、イエス様が最も与えたいと望まれたものです。
救いとは「永遠のいのち」が与えられることです。
主イエスは確かに、この地においても「豊かないのち」に生かしてくださいます。しかし「永遠のいのち」抜きでの「豊かないのち」はあり得ないのです。
主は、人の心に「永遠への思い」を与えられました。これは、救われていない人々にも与えられています。
しかし、救われて「永遠のいのち」を持つようになった者には「永遠への思い」以上のものが与えられます。
それこそ「天の故郷への憧れ」です。
天を「故郷」と思えるのは、聖徒だけです。イエス様の血潮によって贖われた者だけです。
目に塗る目薬を買いなさい
パウロは祈っています。
「心の目」がはっきりと見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。
十字架の血潮を仰ぎなさい。
私たちには「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの尊い血」が注がれているのです。
主の尊い血潮によって、私たちは「見える者」とされます。
「心の目」がはっきりと見えるようになったならば、私たちに「与えられている祝福」が見えるようになるでしょう。
「心の目」がはっきりと見えるようになれば「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」分かるようになります。
「心の目」がはっきりと見えるようになれば「聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」分かるようになります。
「心の目」がはっきりと見えるようになれば、私たちは「天の故郷」を待ち焦がれるようになるでしょう。
血潮を注がれ、見えるようにされたなら「天の故郷」を見つめましょう。
遠くを見つめ続けるのなら、目を悪くすることはないのです。
これは、とても厳しいことばに聞こえます。
「世をも世にあるものも愛してはならない」とは、この世に「心を置くな」ということです。
「愛してはいけません」とは「選んではいけません」とか「得ようとしてはいけません」とも訳せます。
ラオディキアの教会は「イエス様を閉め出してしまった教会」です。
彼らは、主に従っているつもりで「世を選んだ教会」と言えるでしょう。もしくは「世を見ている教会」です。
ラオディキアの教会は「大患難を通過する教会」であると言われます。つまり「携挙されない教会」です。
「世と世にあるものを愛する」のなら、そのような人は「自分が選んだ世」に残されます。
あなたの宝は何ですか。
あなたの宝はどこにありますか。
「富んでいる。豊かになった。足りないものはない」と言ったラオディキア教会は「世の中」にあって「満足」していました。
彼らの「豊かさ」は「地上の豊かさ」です。彼らは「自分の豊かさ」を見て満ち足りていました。
地上的な「豊かさに満足すること」は、彼らを「高慢」にしました。「高慢」によって、彼らの目は見えなくなりました。
「見えない者」となったラオディキア教会は、自分たちの「本当の姿」を見失ってしまいました。
私たちは「地上では旅人であり寄留者である」という本当の自分を見失ってはなりません。
「買う人は所有していないかのようにしていなさい」と聖書は言います。
イエス様は、ラオディキアの教会に「見える者」となって欲しいと望まれます。
なぜなら「置いて行きたくない」と思っておられるからです。
主は、ラオディキアの教会を愛しておられます。ですから「見えるように」なって欲しいのです。
終わりの時代を生きる聖徒は「心の目」がはっきり見えていることがとても大切です。
この世は、ますます「情報があふれる」ようになります。
その中から「取捨選択」するのは至難の業でしょう。
しかし、「世の中」を見極めてやろうと、「世の中」を見続けるならば、確実に見誤ることになります。
私たちも「決心」しましょう。
主イエスの流された血潮こそ、私たちの目薬です。見えるようにされ、聖霊に満たされて生きましょう。
祝福を祈ります。