Ⅱテモテ3:1
終わりの日には困難な時代が来ることを承知しておきなさい。
承知しておきなさいと言われます
パウロは、終わりの日には「困難」な時代が来ると言っています。
この「困難」という言葉は、他の個所では「狂暴」と訳されています。
ここでガダラ人の二人に対して使われている「狂暴」という語と、Ⅱテモテの「困難」とは同じ言葉です。
ですから、終わりの時代は「狂暴」な時代であると訳しても間違いではないということです。
この「困難」には「狂暴」のほかに「取り扱いにくい」という意味もあります。
終わりの時代とは、なんともややこしい時代のようです。
私たちは「困難」で「狂暴」で「取り扱いにくい」時代を生きているのです。
ガダラ人の二人は「悪霊につかれた人々」であったと記されています。そして、彼らは「狂暴」で「取り扱いにくい」二人組でした。ゆえに、人々は、だれも彼らのいる道を通ることができませんでした。
たった二人を悪霊は支配しました。そして、町中の人々を恐れの中に閉じ込めたのです。
終わりの時代、人々がみな「悪霊につかれる」わけではないでしょう。しかし、サタンの支配下に置かれた数人によって、多くの人が「恐れに縛られる」ようなになります。
私たちは騙されてはなりません。
確かに、世の中は「狂暴化」「獣化」しているように見えます。そして、おそらく、どんどんその傾向は強まるでしょう。人々は、ますます「恐れ」るようになります。
イエス様は言われました。
不法がはびこるので、人々は誰のことも信じられなくなります。誰もかれもが嘘つきに見えます。自分を守るためには「愛を冷やす」しかないのです。
不法がはびこる時代がやって来ています。人々の愛はますます冷めていくでしょう。
私たちは、困難な時代が来ることを「承知しておく」必要があります。しかし、恐れる必要はないのです。
世の中が「困難」で「狂暴」で「取り扱いにくい」ものであったとしても、私たちは、そこを避けて通るわけにはいきません。私たちは、主が選んでくださって、あえて「困難な時代」に置かれているのです。
私たち、キリスト・イエスの兵士は、「困難な時代」を承知してはいますが、恐れることはありません。「狂暴」なニュースに身震いすることはありますが、後退はしません。
私たちは祈りましょう。心を整え身を慎みましょう。祈りこそ、キリストの兵士の最大の武器です。この戦いは血肉ではないのですから。
世の中が「恐れにしばられ」て自己保全のための行動に走る時、同じように流されてはいけません。私たちは、まず祈るのです。
そして「多くの人の愛が冷える」時代だからこそ「何よりもまず、互いに熱心に愛し合う」のです。
見えるところに従って歩むなら、私たちも「恐れ」に縛られてしまうでしょう。
私たちは、闇の中に輝く方を見つめて歩みます。
私たちは、騙されません。見えるものは一時的です。私たちはサタンの支配下にはいません。
時代は「困難」で「狂暴」であっても、私たちのうちにおられる方は、この世のあの者よりも強いのです。
堅く信仰に立って、ひざまずき祈りましょう。そして、主の愛をまき散らしながら歩みましょう。
私は困難な時代を承知していますが恐れません
私は見えるところに従って歩みません
私はキリストの兵士です