No.454 些細なことの中にも「主を知る」こと。 その①

カメラと少年

箴言3:4~5
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。

自分の悟りに頼るなと言われます

「心を尽くして」とは、心の「あれこれの全部」ということです。

私は、心の中に「あれこれ」がたくさんあります。そして、それらの一つ一つを自分で選別してしまうのです。

「これは大問題」「これは些細なこと」と勝手に仕分けてしまいます。

私たちは、なぜか誤解しているのです。

「大きな問題」は、主の御前に持って行きます。けれど「小さな問題」は自分の力で解決できるし、しなければならないと思っています。

言い訳すると、私は明確にそのように思っていたわけではありません。

しかし実際は、そのように生きてきたことを認めなければなりません。

「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」と聖書は言います。

「道」とは、すべての「旅」、すべての「方法」とも訳せます。そして、また「習慣」とも訳せるのです。

「習慣」になってしまったような生活の「些細なこと」にでさえ「主を知る」ことが必要なのです。

「主を知れ」とは、そこに「主を見出せ」と言うことです。

私たちは、ごく「些細な」「習慣的な」暮らしの中でこそ「主の臨在」を見失ってしまうのではないでしょうか。

「大きな問題」には、到底、一人では立ち向かえません。ですから、私たちは「主に叫び求め」ます。

しかし「いつもの日常」に「主を招き入れる」ことは忘れてしまうのです。

私は「自分の悟りに頼る」ことをやめなければなりません。

「悟りに頼る」とは「悟りに寄りかかる」という意味です。

私は、自分の「悟り」「知識」「経験」に「寄りかかって」生きてはならないのです。

私は「行く道にすべてにおいて、主を知る」ことを求めなければなりません。

それが「些細なこと」であっても…

それが「いつものこと」であっても…

習慣化されてしまって「考えなくてもできる」ようなことであっても…

主が、私の知恵そのものであり、私はただ主にのみ「寄りかかって」歩みたいのです。

私たちは、心を尽くして主に拠り頼みましょう。

私たちは、行く道のすべてにおいて、主を見出しましょう。

そうすれば、私たちは「まっすぐな道」を歩むことができます。

そして、そうすればきっと「いつもの道」に違う風景を見出せると信じます。

私は、主に拠り頼みます
主は、私の知恵です
私は、主の小道を歩みます