それは「持たせられた望み」です
私たちは「生ける望み」を持っています。
新共同訳では「生き生きとした希望」と訳されています。原語を直訳すると「生きている望み」「いのちを持っている望み」という感じでしょうか。
主は、私たちに「生ける望み」を「持たせて」くださいました。
言い換えるなら、私たちは「生ける望み」を「持たされた」ということです。
つまり、自分の力で「望み」を持つことはできないと言うことです。
私たちが、どう思おうと、私たちが持っている望みは「生きている」のです。
「ああ、もうだめだ。私に望みはない」と、あなたが思ったとしても、主が「持たせて」くださった「望み」は「生きて」います。
「あいつは、もう終わりだ」と、誰かの言うことばが聞こえたとしても、確かに状況がそれを肯定しても、それでも「望み」は「生きて」います。
覚えてください。
「生ける望み」とは「新しく生まれた者」だけに与えられるものです。
それは「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」もたらされる「望み」なのです。
「生ける望み」とは「奥義」なのです。それは聖徒だけに特別に「持たせられたもの」です。
サタンは、それを苦々しく思っています。ゆえに「生ける望み」を隠そうとしてくるのです。
多くの聖徒が「自分には望みなどない」と肩を落として歩んでいます。サタンは、そのことをとても喜んでいるでしょう。
私たちの「望み」とは「キリスト」です。この方こそ「栄光の望み」です。
サタンが隠したいのは、この望みです。そして、神が「知らせたい」と思われるのも、この望みです。
イエス様がおられる限り、私の「望み」が失われることはありません。この方こそ「生ける望み」です。
「もうだめだ」と思うならば「よみがえりの主」を仰ぎなさい。そして、この方が「うちにおられるのだ」と告白しなさい。
「もう終わりだ」とささやく声には「よみがえられた方の御名」によって立ち向かいなさい。
神が「持たせて」くださった「生ける望み」を信じなさい。
アブラハムが抱いた「望み」とは、「この望み」です。アブラハムは「生ける望み」を信じたのです。つまり「神ご自身」を信じたのです。
私たちのうちには「生ける望み」があります。「キリスト、栄光の望み」が与えられています。
見えるすべてが「終わり」を告げるとき、「生ける望み」が輝くのです。
イエス様は、あなたは「生ける望み」です
イエス様、あなたは「栄光の望み」です
イエス様、今、生きているのは私ではなくあなたです

