No.321 自己中心の檻から脱出します

ゴリラが檻に

ルカ18:9
自分は正しいと確信していて、ほかの人を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

自己中心は檻です

イエス様は「自分を正しいとする人」に対して「パリサイ人と取税人のたとえ」を語られました。

ルカ18:11
パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

パリサイ人は「神よ」と呼びかけていますが、神を見て祈っているのではありません。

彼は「自分の行い」を見ています。また、離れて立つ「取税人」を見ています。

このパリサイ人の問題は「自己中心的である」ということです。「独善的」または「独りよがり」とも言えるでしょう。「自己中心」の人生を送っている人は、自分しか見ません。そして、自分と比べるために他人を見ます。

「自己中心とは、サタンが作った檻である」と言った人がいますが、まさにその通りだと思います。「自己中心」は、私たちを縛り付け、また閉じ込めてしまうからです。

このパリサイ人にとって「正しい」とは「何かを積極的にはしないこと」です。彼が積極的にするのは「見栄を張るための断食」と「皆の前で投げ入れる献金」だけです。

彼にとって、そばにいる「取税人」は、神の愛を表す対象ではありません。それは、自分が「そのようでない」ことを確認するための存在にすぎません。

パリサイ人は「小さい世界」で生きています。彼が「正しい」と考える世界は、とても「狭い世界」です。

自己中心とは「小さな世界」「狭い世界」のことです。自己中心は「自分の手の届く範囲」でしか生きることができません。「自分の知らない世界」のことは「拒絶」してしまうからです。

ルカ18:13
一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神様、罪人の私をあわれんでください。」

さえ、取税人は「目を天に向けようともせず」に祈りました。しかし、彼は「神を見て」いました。

取税人は言ったのです。「神様、私にはあなたのあわれみが必要です」と。

主の御前に「あわれみ」を求める人は幸いです。自分の「足りなさ」を認めることのできる人は幸いです。

ルカ18:14
あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。

この場合、自分を高くするとは「自分を正しい者と確信する」ということだと解釈できます。

とすれば、自分を低くするとは「罪を認めること、あわれみを乞うこと」だと言えます。

私は、知らず知らずのうちに「自己中心」「独善的」になってしまうようです。そのような時、私の心は「小さく」「狭く」なってしまいます。そうすると「大きな夢」に手を伸ばすことはできなくなります。

そして、それがサタンの狙いなのです。「自己中心の檻」に閉じ込め、重箱の隅をつつくような生き方をさせたいと目論んでいるのです。

自分が「何をしなかったか」を誇ることはやめましょう。周りの人を比較の対象としてはなりません。彼らは愛する対象です。

手を胸にあて「主よ、あなたのあわれみが必要です」と祈りなさい。

そうすれば、主が高く上げてくださいます。高く上がれば「よく見える」ようになります。よく見えれば「遠くまで」行けるようになります。

高く上がるには、まず「低く」なることです。そして、それが「自己中心の檻」から出る方法です。

主よ、私をあわれんでください
自己中心の生き方を砕いてください
あなたの御手の下にへりくだります