ヘブル13:15
それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。
いけにえは努力ではささげられません
ダビデは「あらゆるとき」に主をほめたたえると言いました。
ヘブル書の著者は「賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を絶えずささげよう」と言います。
そして、私たちはそれを読んで思うのです。
「そうだ。どんな時でも、そんな気持ちにはなれなくても、歯を食いしばってでも、賛美をささげなければならない。犠牲を払って賛美をささげよう」
しかし、聖書はそのようには言っていません。「いけにえ」をささげるのに「努力」は不要です。
つまり「いけにえ」とは、「何らかの犠牲を払って」ささげるものではないということです。実際、「ほめたたえる」のに「努力」は必要ありません。
覚えてください。
主への「ささげ物」は「傷のないもの」でなければならないのです。
そして、私たちにとって「傷も汚れもないいけにえ」とは、ほふられた子羊であるイエス様だけなのです。
私たちの心から「無理矢理しぼりだしたもの」は「いけにえ」ではありません。私たちが歯を食いしばって「美しいことば」をささげても、それは「ほめたたえる」ことにはなりません。
「御名をたたえる」とは、直訳すると「御名を告白する」です。
私たちは「御名を告白する」ことをささげるのです。
「告白」とは「同意する」ということです。
私たちは「みことばに同意します」「主の言われることに賛成します」という宣言を御前にささげるのです。
私たちは「傷も汚れもない子羊のようなキリストの血」によって救われたことを宣言します。
私たちは「主のおしえは完全」であることに同意します。
「あらゆるとき」に宣言します。「絶えず」神の御言葉に同意します。それが「ほめたたえる」ということです。
その宣言のすべては「イエスを通して」ささげられます。御父は、その宣言を喜んでくださいます。
世の中を見つめて、痛む心を抱えて「それでも賛美しなければならない」と言うのは、もうやめなさい。
そこから目を離して「完全ないけにえ」であるイエス様を見なさい。
イエス様の御業によって、すべてが「完了」していることを宣言しなさい。
そして、主の語られた一つ一つの御言葉に同意するのです。聖書の御言葉に同意するのです。
「主は恵み深い」
「神は愛です」
「主に不可能なことは一つもありません」
そのように告白することこそ「賛美」です。そして、それこそ「御名をほめたたえる唇の果実」です。
私たちは、あらゆるときに告白しましょう。たえず「唇の果実」をささげましょう。
主は、あなたの告白を喜んで受け取ってくださいます。
私は、主をほめたたえます
主のみことばを信じます
絶えず、みことばを告白します