No.318 舌がねじれると霊が破けます

バケツの花

箴言15:4
穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。

霊が破れることがあるのです

「穏やかな舌」とは、直訳すると「舌の癒し」です。

「健康な舌」と訳すこともできるようです。つまり「病気の舌」というものがあるのですね。

残念ながら私の「舌」は時々、病気になるようです。

Ⅰペテロ3:10
いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願うものは、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。

不健康な舌は「悪口」を言います。癒されていない舌は「欺き」を語ります。

そのような舌は「ねじれて」いるのです。「ねじれて」は、別訳では「ひねくれた」です。

私たちの舌は「ひねくれ者」で、なかなか制御しずらい器官です。しかし「ねじれ」たままにしておくわけにはいきません。

なぜなら「ねじれた舌」のままだと「霊の破れ」が起こるからです。

「霊の破れ」とは「穴が空く」ということです。

私たちは、恵まれた礼拝をささげます。教会に集って「今日の賛美は素晴らしかった」「みことばは恵まれた」などと思います。

しかし、次の日はどうでしょう?

「満ちあふれた臨在」は、そのままでしょうか?

「月曜日は憂鬱だ」と、かつては私も思っていました。仕事に行くのはしんどいですよね。

しかし、状況によって「満ちあふれた臨在」が失われるなんて不思議ではありませんか?

これは、長年の謎でした。結構、本気で悩んでおりました。しかし、発見してしまえば答えは簡単なことでした。

「霊に穴が空いている」からです。つまり「漏れて」しまっているのです。

もったいないことに、私たちは「口」という穴から「恵み」を漏らしてしまっているのです。

私が「舌」によって「ねじれごと」を言うとき、そこから「満ちていたもの」が漏れだします。

批判したり、辛辣な皮肉を言ったり、遠回しに馬鹿にしたり、誰かを言葉でコントロールしようとしたり、そのような「舌」は病気です。

不平をつぶやいたり、心配ごとばかり話したり、愚痴ったりする、そんな舌は癒されなければなりません。

使徒2:3
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。

聖霊様がペンテコステの日になさったのは「舌の癒し」ではないかと思います。

聖霊様は「他国のことば」を与えられました。私たちの中にも「異言」を与えられている聖徒がおられるでしょう。

しかし、聖霊様の目的は「異言」だけではないと私は思います。イエス様が言われた「新しいことばで語り」とは、異言だけではないように思います。

私の「舌」は「聖霊に支配」されなければなりません。私は異言で祈るだけではなく「新しいことば」を語る必要があります。それは、新しく生まれた者だけが語れることばです。

私たちは「主の愛」を語りましょう。「主の贖い」を語りましょう。「主の恵み」を告げ知らせましょう。

「舌を制することができる人はいません」とヤコブは言っています。

ですから、私たちは「制御する」のではなく「委ねる」のです。

「舌」の癒しを求めます。

聖霊によって「舌」が支配されるように願います。

私たちの「舌」が癒されて、「破れ」が起こりませんように。

「穴」が塞がれて漏れ出さないように、舌の癒しを切に求めます。

聖霊様、どうぞ来てください
私の舌を癒してください
あなたの恵みを告げ知らせる者としてください