箴言15:4
穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。
霊が破れることがあるのです
「穏やかな舌」とは、直訳すると「舌の癒し」です。
「健康な舌」と訳すこともできるようです。つまり「病気の舌」というものがあるのですね。
残念ながら私の「舌」は時々、病気になるようです。
不健康な舌は「悪口」を言います。癒されていない舌は「欺き」を語ります。
そのような舌は「ねじれて」いるのです。「ねじれて」は、別訳では「ひねくれた」です。
私たちの舌は「ひねくれ者」で、なかなか制御しずらい器官です。しかし「ねじれ」たままにしておくわけにはいきません。
なぜなら「ねじれた舌」のままだと「霊の破れ」が起こるからです。
「霊の破れ」とは「穴が空く」ということです。
私たちは、恵まれた礼拝をささげます。教会に集って「今日の賛美は素晴らしかった」「みことばは恵まれた」などと思います。
しかし、次の日はどうでしょう?
「満ちあふれた臨在」は、そのままでしょうか?
「月曜日は憂鬱だ」と、かつては私も思っていました。仕事に行くのはしんどいですよね。
しかし、状況によって「満ちあふれた臨在」が失われるなんて不思議ではありませんか?
これは、長年の謎でした。結構、本気で悩んでおりました。しかし、発見してしまえば答えは簡単なことでした。
「霊に穴が空いている」からです。つまり「漏れて」しまっているのです。
もったいないことに、私たちは「口」という穴から「恵み」を漏らしてしまっているのです。
私が「舌」によって「ねじれごと」を言うとき、そこから「満ちていたもの」が漏れだします。
批判したり、辛辣な皮肉を言ったり、遠回しに馬鹿にしたり、誰かを言葉でコントロールしようとしたり、そのような「舌」は病気です。
不平をつぶやいたり、心配ごとばかり話したり、愚痴ったりする、そんな舌は癒されなければなりません。
聖霊様がペンテコステの日になさったのは「舌の癒し」ではないかと思います。
聖霊様は「他国のことば」を与えられました。私たちの中にも「異言」を与えられている聖徒がおられるでしょう。
しかし、聖霊様の目的は「異言」だけではないと私は思います。イエス様が言われた「新しいことばで語り」とは、異言だけではないように思います。
私の「舌」は「聖霊に支配」されなければなりません。私は異言で祈るだけではなく「新しいことば」を語る必要があります。それは、新しく生まれた者だけが語れることばです。
私たちは「主の愛」を語りましょう。「主の贖い」を語りましょう。「主の恵み」を告げ知らせましょう。
「舌を制することができる人はいません」とヤコブは言っています。
ですから、私たちは「制御する」のではなく「委ねる」のです。
「舌」の癒しを求めます。
聖霊によって「舌」が支配されるように願います。
私たちの「舌」が癒されて、「破れ」が起こりませんように。
「穴」が塞がれて漏れ出さないように、舌の癒しを切に求めます。
聖霊様、どうぞ来てください
私の舌を癒してください
あなたの恵みを告げ知らせる者としてください