ヨハネ13:1
さて、過ぎ越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
それは愛の現れでした
もうすぐ世を去ろうとしておられるイエス様は、最後の最後まで弟子たちを愛されました。
「最後まで」とは、「極みまで」とも訳せます。主は「極みまで」弟子たちを愛されました。
そして、その愛を明らかにしてくださったのです。イエス様は、愛を現わす方法として「ことば」ではなく「行動」を選ばれました。
イエス様は、弟子たち一人一人の足を洗い始められたのです。しもべの役割をにない膝をつき、彼らの足を洗われたのです。
そして、言われました。
イエス様は、私たちが同じようにすることを望まれます。
つまり「極みまで愛すること」を望まれます。そして、その愛を「行動によって示すこと」を望まれるのです。
イエス様は、自分を空しくし、仕える者の姿を取り、弟子たちの足を洗われました。それは愛を表す行為です。
そこに「ご自分を裏切る者」がいることを、主はご存知でした。しかし、分け隔てなく、イスカリオテのユダの足をも洗われました。主が、ユダを愛しておられたことは確かです。
すべての弟子が愛を受け入れたわけではありません。イエス様と食卓を囲んでいた友であるユダは、すでに裏切りを計画していました。彼は、イエス様の愛を拒絶したのです。
それを思うとき「あなたがたも足を洗い合いなさい」というお言葉に重みを感じます。
イエス様は、ご自身の弟子であることの「心構え」を伝えられたのです。
イエス様のうちにある思いとは「あり方を捨てることができないとは考えない」ということです。
イエス様は「神のあり方」に固執されませんでした。
「師」であるという立場にも固執されませんでした。
愛を表すためには、ひざまずいて「ユダ」の足をも洗われるのです。
私に足りないのは「キリスト・イエスのうちにあるこの思い」です。つまり、問題はいつも「自分のあり方」を捨てることができないことです。
イエス様の「極みまでの愛」を覚えましょう。
私の足を洗ってくださるどころか、十字架ですべてを捨ててくださった方を覚えましょう。
しもべは主人にまさりません。
私も、足を洗うしもべになりたいと切に願います。
主の測り知れない愛を感謝します
主が足を洗われたことを心に刻み付けることができますように
私は「あり方を捨てる」ことができます