ガラテヤ3:13~14
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。
イエス様は呪われた者となってくださいました
十字架は「交換の場」です。
私たちは「悔い改め」を「赦しを乞うこと」だと勘違いしてしまうことがあります。
必死になって「主よ、お赦しください。もうしません。二度としません」と平謝りに謝ることが悔い改めだと思ってしまうのです。涙を流して悲しめば「赦される」わけではありません。
「悔い改め」とは「この罪がいやになりました。必要ないのでもらってください」と言うことです。
「主よ、この罪が嫌いです。持っていたくありません。あなたが受け取ってください」と言うのです。
そうすれば、主は言われます。
「あなたの罪は、すでに処理済みだ。さあ、この赦しと交換してあげよう。雪のように白く、羊の毛のように白くなれ」と。
主は、ご自身が「のろわれた者」となってくださいました。それは、私たちの「のろい」を「祝福」に交換するためです。
恵みは無条件です。誰でも祝福を受けることができます。
ただ、悔い改めと同じで「言い表す」必要があるのです。受け取るためには「交換希望」と申し出る必要があるのです。
「主よ、私にのろいは必要ありません。祝福と交換してください」
あなたの「不要なもの」をすべて御前に持って出なさい。主の御前に「すべてを明け渡す」とは、そのようなことなのです。
「信仰」とは、主が「交換」してくださることを信じることです。
主が「病」を負ってくださったのです。
ですから私たちは言いましょう。
「主よ、私に病は必要ありません。癒やしと交換してください。主が病を負ってくださったことを感謝します」
主が「痛み」を担ってくださったのです。ですから、こう言いましょう。
「主よ、私は痛みに耐えられません。平安と交換してください。あなたが痛みを担ってくださったことを感謝します」
私たちは言いましょう。
「主よ、私に憂いの心は必要ありません。賛美の外套と交換してください」
イエス様は「代価」を払って、私たちの「罪、咎、病、痛み、憂い」などを買い取ってくださったのです。
言い換えれば、それはすべて「主のもの」と言えます。
私たちは「罪、咎、病、痛み、憂い」を持っているべきではありません。
すべてを御前に持って行きましょう。主は喜んで「すべてのよきもの」と交換してくださるでしょう。
私たちは、一度、主に交換してもらったものを大切にしなければなりません。
罪も憂いも取り戻してはなりません。「いらないのに戻って来た」と感じたなら、すぐさま返品です。
私たちに「祝福が及ぶため」にイエス様はのろわれた者になられたのです。
主が与えてくださった「祝福」を決して手離してはなりません。
私の「のろい」は、イエス様が負ってくださいました
私には「祝福」が及びます
憂いの心に代えて賛美の外套を着ます