ユダ20節
しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。
最も聖なる信仰の上に
私たちは「御霊によって導かれて」います。あなたが「神の子ども」とされたのならば間違いなく「御霊に導かれて」いるはずです。
私たちは、なかなか「自分に自信を持つ」ことができないものです。果たして、自分みたいなものが本当に「御霊に導かれている」のだろうかと疑ってしまうのです。
しかし、聖書は言います。
「あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい」
「最も聖なる信仰」とは、自分を信じることではありません。自分自身を「信じられない」のは当然のことです。あなたが「自分に自信が持てない」のは当然のことです。
もし、あなたが自分を「信じて期待する」ならば、その信仰と期待はすぐに裏切られるでしょう。私は「明日は頑張る」という自分の言葉に何十年と裏切られています(笑)
私は、何度も自分自身に失望しています。
つまり「失望させるもの」である「私」は信じるに値するものではないということです。本当に「信頼するべき」なのは「決して失望させない」と言われる方だけです。
私たちは「みことば」を信じます。主が、約束されたのです。
あなたが「イエス・キリストの御名」を信じているならば、あなたは「神の子ども」です。そして「神の子ども」であるならば「御霊に導かれる」ことができるのです。
主が、あなたに「導き」を与えてくださることを信じなさい。
私は、自分のうちに与えられた「志」をずいぶん無駄にしてきたと後悔しています。私は、自分の心に浮かんだことが「果たして御心であるのか」と疑ったのです。
自分が「本当に御声を聞いたかどうか自信がなかった」からです。
それは「慎重な姿勢」に見えるでしょう。自分でも「私はずいぶん慎重だ」と思っています(笑)
しかし、本当は「慎重」なのではなく「不信仰」であり「高慢」であったのです。それは「自分自身」に信仰を築き上げていることなのです。
主が約束してくださった「立場」を信じます。「神の子ども」とされたことを信じます。主の恵みを信じます。聖霊には「導く力」があることを信じます。
「私は自信がない」というのは終わりです。そもそも「私の自信」など信頼するべきものではないのですから。「導きかどうか分からない」というのはやめました。私は「神の子ども」なのです。御霊は導くことがお出来になります。
たとえ「失敗した」ように見えても、それが何だと言うのでしょう。主は「すべてのことを働かせて益としてくださる方」ではありませんか。
私たちは「絶対に成功する」から行うのではありません。それが「良いこと」だから行うのではありません。「信じた」ので行うのです。「信じた」ので語るのです。
私たちは「最も聖なる信仰の上に自分自身を築き上げ」るのです。
私は、主を信じます
私は、御霊に導かれます
疑わずつぶやかず行います