エペソ2:10
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
主が「映え」させてくださいます
聖書は「私たちは神の作品です」と言っています。
「作品」とは原語では「ποίημα(ポイエーマ)」です。「ポイエーマ」とは、誰かが「作った物、生み出したもの」に使われる語です。それが、後々「芸術作品」を指して使われるようになったと言われます。 つまり、私たちは「神の芸術作品です」と言ってもよいわけです。
「芸術的なもの」は、扱いに注意しなければなりません。「誰でも上手く扱えるもの」ではありません。それは、ほとんどの場合「取り扱い注意」なのです。
神学校時代、花を生ける奉仕を任せられたことがあります。様々な花器がありましたが、どれに何を生ければ「映える」のか、素養のない私にはさっぱり分かりませんでした。結局、そのようなことが得意な姉妹を引っ張って来て「再任命」し、つまり丸投げし、事なきを得たわけです。
おそらく「価値のある花器」であったと思います。しかし、価値の分からない私には「変な形」にしか見えませんでした。けれども、価値が分かる人が扱えば「花器」も「花」もどちらも「映え」るのです。その姉妹の「生け花」は「花器」も「花」も美しく見えました。そして、それを見た人を楽しませたのです。
私は「私の価値」をすべて理解してはいません。他人は、私のことを「扱いにくい」と言うでしょうし、私自身も「私を扱いにくい」と感じているのです。私は「変な形」なのです。
しかし、私は「神の芸術作品」です。創り主は、私の「扱い方」をご存知です。どのように扱えば「神の栄光」が現れるのかご存知なのです。どのようにすれば「創造主の意図」が表現できるのかご存知なのです。
自分で自分を「うまく扱えない」からといって腹を立てたり、悲しんだりする必要はありません。私は「芸術作品」なのです。そんなに簡単に「誰にでも」取り扱えるものではありません。
しかし、私の創り主は、ご自身の「作品」を「映え」させることがお出来になります。私は、ただ委ねていればよいのです。
「良い行い」つまり、私が造られた「目的」は、すでに用意されています。主は、私を造られたとき「どのように用いるか」もあらかじめ決めておられました。「どのように」はすでに備えられています。「何をすれば」もあらかじめ準備されています。
私はただ「あらかじめ備えられた良い行い」に歩めばよいのです。自分で「良い行い」を探し出して頑張る必要はないのです。主は必ず「上手く扱って」くださいます。そして、必ず「栄光」を現わしてくださいます。
私は、主が私を喜んで「扱って」くださることを信じています。そして、私を「愛でて」楽しんでくださるであろうと信じているのです。
私は「神の作品」です
主が私を扱ってくださいます
私の良い行いはすでに備えられています