No.300 礼拝の中でご自身を啓示してくださいます

白い花

エペソ1:3
私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、キリストにあって天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

ほめたたえることは祝福です

神を「ほめたたえる」という語と「祝福」という語は原語では同じです。

つまり、私たちの側からささげるときは「賛美・ほめたたえる」などと訳されますが、神から賜る時には「祝福する」と訳されるということです。感謝と恵みの関係と同じですね。

私は、救われたばかりのころ詩篇が苦手でした。厳密に言うと「嘆きの詩篇」は好きでしたが「賛美の詩篇」が苦手でした。

なぜなら「ほめたたえよ」という命令を受け入れるのが難しかったからです。これは、私にとってかなり深刻な問題でした。

私は「なぜ、主はご自身をほめるように強制されるのだろう」と思っていました。主は素晴らしい方です。私は救い主イエスを心から愛しています。ですから、賛美も自発的にささげます。なので、そんなに「ほめたたえよ」と繰り返す必要はないでしょうと思っていました。

しかし、周囲の兄姉たちはニコニコして「詩篇が大好きです」と言っていましたので、私も仮面をかぶって一緒にニコニコしていたわけです。

そのような時、私はC・Sルイスが同じ疑問を持っていたことを知ったのです。

「私たちは神を礼拝すべきだ」という要求につまづいた。神ご自身がそれを要求しておられると示唆されるに及んで、それはなおひどいものとなった。~中略~
それは極端に苦痛を与えるものであった。神に対する感謝、神に対する敬意、神に対する従順なら理解できると思ったが、この絶え間ない賛辞はだめであった。神が賛美される「権利」について語った近代的な著者によっても事態は改善されなかった。
祝されたデボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社

C・Sルイスは、真剣に葛藤していました。そして、もちろん私も真剣に葛藤していました。この問題が解決されない限り、主に心から従うことはできないと思い詰めていました。

しかし、その葛藤は「あっさり」と取り払われました。C・Sルイスが発見したことを私も発見したからです。

神がご自身の臨在を人々に伝達するのは、礼拝を受けている過程のことである。
祝されたデボーションのために ジョセフ・S・キャロル著 いのちのことば社

愚かな私は、主が「与え主」であることを見過ごしていたのです。主は、ご自身を「与えたい」と切に望まれるのです。主は、ご自身を私たちに「啓示したい」と望んでおられるのです。

私は「行為」に目を留めて「御心」を受け留めることができていなかったのです。

この真理は、私の生き方を変えたと言っても過言ではありません。私は礼拝します。私は主をほめたたえます。なぜなら、私は「主ご自身」を啓示されたいと心から願うからです。

賛美のうちに、主が御座を設けられます。賛美のうちに、主は住まわれます。主は、私たちが「ほめたたえる」とき、「祝福」をもってこたえてくださるのです。

「天上にあるすべての霊的祝福」をもって祝福してくださるのです。それは尽きることのない祝福です。主は、私たちを「祝福したい」と望んでおられるのです。

神は「礼拝を受けている過程」において「ご自身の臨在」を伝達されます。「ほめたたえよ」とは、言い換えるならば「会いに来なさい」ということです。御父は、ご自身の御子を犠牲にして、私たちが「神に会える」ようにしてくださいました。

最も素晴らしい祝福は「神のご臨在」のうちで「神ご自身を知る」ということです。

主をほめたたえます
天上にあるすべての霊的祝福を感謝します
主の臨在の中で、主を知る恵みにあずからせてください