【ダニエル3:18】
しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。
火の燃える炉の中に
金の像を拝まなければ「火の燃える炉」に投げ込まれるのです。
「どの神が、私の手からおまえたちを救えるのか」とネブカドネツァル王は言いました。
「私たちはお答えする必要がありません」と彼らは言いました。
何も言うべきことなどないのです。なぜなら、どんなことを言われたとしても答えは決まっているからです。
主は彼ら3人を「火の燃える炉の中」から救い出すことがおできになります。全能の神に不可能なことなど何一つありません。
彼らは、主の全能の力を微塵も疑ってはいなかったでしょう。
けれど、3人が金の像を拝むことを拒否したのは「救い出される」からではありません。
「たとえそうでなくても」
彼らは、金の像を拝むことはしないのです。
「救い出されるか」「救い出されないか」は、彼らの決断には関係ないのです。
「たとえそうでなくても」
主が彼らを火の炉から救われなかったとしても、彼らは金の像を決して拝みはしません。
主は唯一の神です。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、主を愛することは、重要な第一の戒めであるとイエス様は言われました。(cf.マタイ22:28)
私たちは、唯一の神以外に決してひざをかがめません。この決断は、ネブカドネツァル王に脅される前から、彼らの心の中にあったのです。
「死ぬか、生きるか」の選択をネブカドネツァルは突きつけました。
けれど、彼らの選択は「愛するか、愛さないか」「従うか、従わないか」であったのです。
サタンは、私たちに囁きます。「火の炉に投げ込まれるけどね、助けてもらえるかしらね、どうする?」と。
私たちは、それに答える必要などありません。
「たとえそうでなくても」
私は、主を愛します。主に従います。
なぜなら、私のこの決断の前に、まず神が決断して下さったからです。
まず神が御子を遣わそうと決断してくださったのです。
神が先に愛を明らかにしてくださったのです。
ですから、私たちは神の愛によって決断します。
「たとえそうでなくても」
目に見える「物」と「事」がどのようであっても、すでにここに愛はあります。
神がまず愛してくださいました。
すでにここに愛があることを感謝します。
私は神の愛を握りしめて決断します。
私は、主なる神だけをあがめます。