No.293 思い煩いは罪なのです!

窓際の赤ちゃん

マタイ6:31
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。

思い煩うことは恥をかかせることです

「心配しなくてもよい」とイエス様は言われます。

そして「心配しなくてもよい理由」を教えてくださいました。

マタイ6:32
これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

天の父は「これらのものがすべて必要であること」を知っておられます。

ですから、私たちは心配する必要がないのです。

聖書は言います。

ピリピ4:6
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがの願い事を神に知っていただきなさい。

私たちは「何も思い煩って」はならないのです。

それでも、私たちは「思い煩い」ますし「心配」しています。

そして、私たちの多くは、それが「罪」であることに気がついていません。

御言葉が「何も思い煩ってはならない」と言っているのです。イエス様が「心配するな」と言われるのです。

それなのに「思い煩い」「心配」し続けるならば、御言葉に背き続けていることになります。

私は、厳しいことを言っていますね。

しかし、どうか考えてみてください。

あなたに小学生の子どもがいるとしましょう。

ある日、その子の担任から連絡が来ます。

「お宅のお子さんが心配しているのです。今度の遠足に持って行くお菓子をお父さんは買ってくれないかもしれない。着ていく服も用意してもらえないかもしれない。お弁当も作ってもらえないかもしれないと。」

もし、そのように言われたとしたら…

「まさか、うちの子が、そんなことを言っているのですか。私は、あの子を愛しています。必要な物は何でもすぐに準備しますよ」

きっと、そのように答えるでしょう。

しかし、どうでしょうか。

あなたの「面目は丸つぶれ」ですね。あなたは「恥をかく」ことになります。

「ああ、あそこの親は、子どもにあんな心配をさせて。信頼できない親に育てられて、あの子もかわいそうだね」と人々は噂するかもしれません。

さて、なぜ「思い煩い」や「心配すること」が罪であるか理解していただけたでしょうか?

それは「心配」することは、私たちの神には「それを解決する力がない」と言っているようなものだからです。

主には「必要を満たす力がない」と言いふらして恥をかかせているようなものだからです。

「思い煩う」ことは「主は、必要を満たしてくださらないかもしれない」と言っているようなものです。

天の父は、ご自分の子どもを「みじめ」に放って置くのだと宣伝しているようなものです。

確かに、私の側には「思い煩う理由」がたくさんあります。

「ああ、最近、祈ってないし、主は私を助けてくださらないかもしれない」

「私は、良い行いができていない。主は、私の必要を満たしてくださるだろうか」

愛する兄弟姉妹。

あなたが「自分」を見るならば、主が必要を満たしてくださることを確信するのは難しいでしょう。

しかし、もし、あなたが「天の父」がどのような方であるかに目を向けるならば、心に確信が満ち溢れるでしょう。

私たちの天の父は「 善い方」です。信頼するにふさわしいお方です。そして、ご自分の子どもの必要をすべてご存知です。

マタイ7:11
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。

「心配」するのはやめなさい。「思い煩う」のは終わりです。

御父の「面目をつぶして」はなりません。

天の父は、私たちの必要のすべてをご存知です。そして、天の父は、それらを与える御力をお持ちです。

私は、ただ信頼して待っていればよいのです。

私は心配しません
天の父が良い方であることを信じます
主は必要のすべてを満たされます