イザヤ43:19
見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
弟子は新しいことを経験するものです
私の愛読書の1冊に「弟子への召命」という本があります。その中の一節を引用します。
私の会衆の一人で、教会の刷新の始まる前に救われたある少年が言った。「私が改心して六か月以内に私は教会の誰もが知っていることは何でも分かった。その六か月目からは、私はただ会衆の中で支えられ、成長はそこで止まったのです。」
ご承知のように人々は教会にうんざりしている。それはサタンが彼らを誘惑するからではなく、我々がいつも福音の最初の原則にとどまっているからである。
弟子への召命 ホワン・カルロス・オーデーィズ著 生ける水の川
イエス様に従って歩むなら「成長が止まる」ことなどありえません。教会に「うんざりする」なんてありえないはずです。しかし、現実はどうでしょう。とても辛いことだけれど私は認めなければなりません。
確かに、今の教会なら1年も通えば「何でも分かっている」という顔をして集会に参加できるでしょう。
「新しいことなど何も起こらない」「平安とは無難に生きていくことだ」「何も起こらないことが感謝だ」
そして、私たちは「今週も無事に過ごせたね」「何も起こらず幸いでした」と言って笑いながら「また来週ね」と帰っていくのです。
イエス様の弟子たちは、常に「新しいこと」を経験します。いえ、経験せざるを得ないのです。
イエス様は、とうてい準備ができたとは思えない弟子たちを宣教に遣わされました。「旅のために何も持たずに行きなさい」と言われました。弟子たちは「新しいこと」を経験せざるを得なかったでしょう。
ジョージ・ミュラーは「信仰の祈りだけで神に何ができるのか、このジョージが証明して見せよう」と言いました。そうして、何千人もの孤児たちを、公に献金を募らずに養いました。
ジャッキー・ポリンジャーは、たった一人で「香港九龍城砦」で福音を伝えました。彼女は、聖霊の御力が人々をアヘンから解放するのを見ました。
主は「新しいこと」を行うお方です。それは常に「芽生えて」います。
停滞しているのは「私の心」です。
イエス様は「弟子」を求めておられます。どんなときでも「付き従う者」を求めておられます。
「くれろ、くれろ」と群がる人々ではなく、心を分かち合える「友」を求めておられます。
誰かではなく、私が「弟子」とならねばなりません。いつかではなく、今「弟子」とならねばなりません。
私は行きます。そして、主のなされる「新しいこと」を必ず見ます。
新しいことを期待します
私は弟子として歩みます
私は行けと言われるなら行きます