No.288 どんなときでも主の方へ走って行きます

走って行く

詩篇32:7
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り
救いの歓声で
私を取り囲んでくださいます。

交わりから遠ざかると乾ききります

長い間、おそらく1年ほど、ダビデは御前に口を閉ざしていました。

詩篇32:3~4
私が黙っていたとき
私の骨は疲れ切り
私は一日中うめきました。
昼も夜も
御手が私の上に重くのしかかり
骨の髄さえ
夏の日照りで乾ききったからです。

ダビデの心は重く沈んでいました。心は「乾ききって」いました。一日中、重い心を引きずって、かろうじて生きているだけでした。

何が原因なのか、ダビデはよく分かっていました。

ダビデが「乾ききった」のは、主との交わりが断たれたからです。この場合は、ダビデが「罪の告白」を先延ばしにしていたことが原因でした。

御前に出ればよいのです。御前に出て、ひれ伏し、すべてを告白すればよいのです。しかし、そうすることができなかったのです。

このダビデの気持ちは、とてもよく分かります。

つくづく私は愚かな者です。分かっているのに、御前に出ることを躊躇してしまうことが度々あります。

高く上っていると感じていればいるほど、落ちたときの衝撃は激しいものになります。

そして、その衝撃が激しければ激しいほど、戻る速度が遅くなるような気がします。もちろん、そうであってはならないことは分かっています。

交わりから「遠ざかってしまった」と感じたならば、何を置いてもすぐに戻るのが一番よいのです。

交わりを回復するために必要なのは一つだけ「言い表すこと」です。

詩篇32:5
私は自分の罪をあなたに知らせ
自分の咎を隠しませんでした。
私は言いました。
「私の背きの罪を主に告白しよう」と。
すると あなたは私の罪のとがめを
赦してくださいました。

ダビデは、主に「告白」しました。自分の心を、自分の状態を「言い表した」のです。

主は、ダビデが「何をしたのか」をご存知です。どんな思いを抱えて黙っているのかもご存知です。

主は、ダビデに「言い表して欲しい」と望んでおられました。

ダビデは「主の御手」が昼も夜も「重くのしかかる」のを感じていました。

この「重さ」「乾き」は、主の御手がのしかかっているからだと分かっていました。

詩篇32:7
あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り
救いの歓声で
私を取り囲んでくださいます。

「重くのしかかって」いた主の御手が、今はダビデの「隠れ場」となりました。

私は時々、逆走してしまうのです。

罪悪感から逃げようとして、主の御顔を避けて走りだしてしまいます。

できるだけ御顔から離れれば「罪悪感」は薄れていくだろうと思うのです。

しかし、それは実際には「隠れ場」から遠ざかっていることなのです。

私のたましいよ、走るなら正しい方向に走れ。

カインのように「主の前から出て行って」はならない。エデンの東には何もないのだから。

そして、どうせ戻るのだから、ぐずぐずせずに、とっとと戻って行きなさい。

この交わりを失って生きていくことなど、決してできないと分かっているのだから。

詩篇32:10
悪しき者は心の痛みが多い。
しかし 主に信頼する者は
恵みがその人を囲んでいる。

主との交わりが回復されたダビデから「心の痛み」は去りました。

ダビデは自分の周りに「恵み」が取り囲んでいることを感じたのです。

箴言18:10
主の名は堅固なやぐら。正しい人はその中に駆け込み、保護される。

たとえ、自分の罪のせいで「罪悪感」に追われていたとしても、主の御名に駆け込むならば「守られる」のです。

主の御名は強いやぐらです
あなたは私の隠れ場です
どんなときでも、主のもとに走って行けますように