詩篇51:10
神よ 私にきよい心を造り
揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。
持っていくのは「砕かれた霊」だけです
ダビデは、砕かれた霊をもって御前にでました。
いけにえの動物も、良い行いも、おそらく歌さえも、持ってはいなかったでしょう。
主の御前に持って出たのは「打たれ、砕かれた心」のみでした。
そして、ダビデは祈ったのです。
この「造り」と訳された語は、ヘブル語で「バーラー」と言います。
これは創世記において創造の御業を示すのに使われた語と同じです。
この「創造された」が「バーラー」です。
「創造する(ヘブル語バラー)」という語は、ヘブル語ではもっぱら「神の行為」を表すために用いられる。ほかのどの国のことばにも、このようなことばはない。この語は、神は労せずして造りたもうという観念を含んでいる。また、そこに造り出される結果が、異常なもの、常識を超えたものであるという含みがある。
初めに神が(創世記の研究) フローレンス・ビヤバウト著 聖書図書刊行会
はじめに神が天と地を創造されたとき、そこには「何もなかった」のです。
ただ「神の霊だけ」が「闇の中」を動いておられたのです。
ダビデが「神よ 私にきよい心を造り」と願ったとき、おそらく自分の心に「闇」を感じていただろうと思います。
自分ではどうすることもできない自分の中の闇。
ダビデは正直に自分を見つめました。
そうすると、目を背けることのできない「自分の罪」が浮き彫りにされたのです。
その罪は「ずっと自分のうちにあったもの」であるとダビデは告白しているのです。
そして、その罪を自分ではどうすることもできないと認めているのです。
イエス様は言われました。
私たちには、ダビデと同じ祈りが必要です。
「きよい心」を自分で造ることはできません。
それは「不可能」だからです。
私の「素晴らしく良い行い」も「麗しい賛美」でさえも「新しい創造」を行うことはできません。
それは「まったく神のわざ」だからです。それは「常識でない」「尋常ではない」「誰にも行えない」ことだからです。
創造(バーラー)は、主の御業にのみ使われる語です。
「主よ、私にきよい心を造ってください。創造の御業を私の心に行ってください」と求めるのです。
私の心の中が「闇」であったとしても、そこに「聖霊」が舞いかけてくだされば「新しく造られた者」となります。
この地に「光」を造りだされた方が、私の心にも「光」を生み出されます。
そして「闇」は、けっして「光」に打ち勝つことはできないのです。
主が「光」を造られたことを感謝します
主が「創造主」であることを感謝します
私のうちに「きよい心を造って」ください