エリヤだって、もう無理だと思ったのです
預言者エリヤは疲れ果ててしまったのです。
エリヤは、主の御名のために激しく戦いました。そして勝利を得ました。しかし、彼のたましいは疲れ果ててしまったのです。
エリヤは、自分以外「主の預言者」はいないと思い込んでいました。疲れ果てた彼は「もう十分です。いのちを取ってください」と願うほどになりました。
牧師や伝道師だけではなく、主のために熱心に歩んでいる兄弟姉妹が「疲れ果ててしまう」ことはよくあることだと思うのです。
エリヤは「私だけが残った」と言いました。
エリヤが「疲れ果てた理由」には多くの要素があるでしょう。
「孤独感」は、その一つにすぎません。しかし、彼が「孤独」を感じていたのは確かでしょう。
働き人の孤独は深刻だと私は思います。それは牧師に限ったことではありません。すべての熱心な聖徒は「働き人」です。
熱心に働いて、その働きが順調に進んでいる場合、私たちは「孤独」を感じることはあまりないようです。
しかし、何かしらの問題が起こったときにそれは顔を出します。
今まで上手く回っていた歯車が急に軋み出した時、自分でも知らなかった「感情」が一気に押し寄せてきます。
それは「恐れ」であるかもしれません。「怒り」であるかもしれません。「寂しさ」だったり「喪失感」であったり、人によって押し寄せる感情は違うでしょう。
「孤独」であることは、それらすべての感情を増幅させます。「私だけ」とあなたが思うとき、その感情は耐えがたいものになるでしょう。
愛する兄弟姉妹。
休んでもいいのです。独りぼっちだと感じるなら泣いてもいいのです。
主はエリヤにしてくださったように「パン菓子と水」をあなたにも与えてくださるでしょう。
主のことばは「甘い」ことを思い出してください。
聖霊があなたを「潤す方」であることを再び感じてください。
横になって、再び起き上がるとき、あなたは「歩き出す力」を得ているでしょう。
試みの「四十日四十夜」は、長く感じるかもしれません。しかし、主は、あなたがそこを通過するまで「パン菓子と水」を与え続けてくださいます。
孤独に押しつぶされそうならば「主の山」に行くのです。
主にお会いして、主の御声を聞くのです。
主は「パン菓子と水」で導いてくださいます。
山を下りる時に、あなたは知るでしょう。
主は常に「バアルに膝をかがめていない七千人」を残しておられることを。
あなたは、きっと「エリシャ」を見出し「預言者のともがら」に出会うでしょう。
私たちは、一人のように見えても「孤独」ではありません。知らないところで、誰でも「誰かに祈られて」いるものです。
私はそう信じています。
主よ、あなたの御言葉の甘さを教えてください
御霊によって潤してください
私が歩けるように導いてください