No.283 本当の悔い改めは恵みに導く扉です

扉を抜けて

レビ13:13~14
祭司がそれを調べる。もし、そのツァラアトがその人のからだ全体をおおっているのなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。しかし、肉がむき出しになったときは、彼は汚れた者となる。

全身がおおわれれば「きよい」のです

ツァラアトの規定は、とても興味深いものだと思います。

一部分だけ「冒されて」いれば、その人はツァラアトの疑いありとされます。隔離され、調べられ、患部が広がっていれば「汚れている」と宣言されてしまいます。

しかし、からだの全身が祭司の目に見えている限りにおいて、白く覆われていれば、その人は「きよい」と宣言されるのです。

スポルジョンは、この箇所に関してこう言っています。

この規則は妙に聞こえるかもしれないが、この中には知恵がある。病毒が外に吹き出ることは、身体が健全であることを証明しているからである。こよい、この不思議な規則が教えている教訓を学ぼう。
朝ごとに夕ごとに C・H・スポルジョン著 いのちのことば社

自分の全部が「罪」であると認めることは勇気がいります。

「私は罪深い者です」と簡単に言うことはできますが、心からそう思っている人はどれぐらいいるでしょう。

全身が真っ白になっていくのを感じるのは恐ろしかっただろうと思います。

手にできた斑点が、腕に広がり、胸に広がり、肩に広がり、顔にまで迫って来たとしたら、恐怖で押しつぶされてしまうのではないでしょうか。

これは「ツァラトだ」と自分で認めるのは、あまりにも辛いことだったでしょう。

「罪」とは、そのようなものなのです。本来、それは「恐怖を感じる」べきものであるのです。

聖書は言います。

「ツァラアトがその人のからだ全体をおおっているのなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい」

全身を覆ってしまえば「きよい」と宣言されるのです。

私が、自分の良いところを「一部分」見つけて、その「一部分の義」で生きるなら、私は「汚れたまま」です。

しかし、私が「全部分が罪だ」と認めて、御前にひれ伏すならば、大祭司であるイエス様が「あなたはきよい」と宣言してくださいます。

「肉がむき出しになっている」ことが「汚れていること」なのです。

愛する兄弟姉妹。

自分が全く「罪そのものである」という自覚は、あなたを深く追いつめることになるかもしれません。

しかし、怯えないでください。それは「断罪」するためではないからです。

罪の自覚は「恵みのわざの始まり」です。もっと深く、もっと豊かな「人知を超えたキリストの愛」へ招く扉です。

全身が白く覆われたならば「きよい」のです。私たちが自分は「まったく罪である」と認めるならば、大祭司の宣言が聞こえるでしょう。

「わたしの血潮により、あなたは全くきよい」

そのとき私たちは、絶望でしかなかったものが、恵みによって喜びに変えられることを知ります。

罪を犯したという事実は、とんでもなく私を汚し傷つけました。それは、恥であり絶望です。

しかし、主は、それさえも栄光に変えられます。

罪を犯さない方がよいのです。しかし、罪を犯したことさえも賛美に変えられる主の御業に感謝します。

自分は「まったく罪である」という自覚は、主の恵みを豊かに知ることに導きます。

私たちの悔い改めは、必ず賛美で終わるのです。

主よ、あなたこそ私の義です
あなたの恵みを受け取ります
豊かな恵みを感謝します