No.280 見つめ合いながら歩みます

見つめる獅子

詩篇11:7
主は正しく 正義を愛される。
直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。

直ぐな人は御顔を仰ぎ見ます

ダビデは言います。

「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」と。

「仰ぎ見る」と訳された言葉は、原語では「ハーザーחָזָה」です。

「見る」「仰ぎ見る」「預言する」「目を注ぐ」などと訳されます。

詩篇11:4b
その目は見通し
そのまぶたは人の子らを調べる

ここで「見通し」と訳されている言葉も原語では「ハーザーחָזָה」です。

主の目は「見通し(ハーザーחָזָה)」、直ぐな人は「仰ぎ見る(ハーザーחָזָה)」のです。

主は「すべての人」を見通されます。

「悪者」は、主の御目に耐えることはできません。

しかし、「直ぐな人」は御顔を仰ぎ見ます。

この場合、「直ぐな人」とは「完全に品行方正な人」のことではありません。「行いにおいて完全な人」ではありません。

それが「御顔を仰ぎ見る条件」なのだとしたら、ダビデは御顔を仰ぎ見ることはできないでしょう。

「直ぐな人」とは「真っすぐな人」のことです。「歪みのない人」「曲がっていない人」とも言えます。

それは「行い」ではなく「関係」において「真っすぐ」であるということです。

主との「真っすぐな関係」のうちにあるならば、私たちはいつでも「御顔を仰ぎ見る」ことができます。

私たちは、イエス様の流された血潮によって「いつでも真っすぐ」な関係でいることができます。

主は「見通され(ハーザーחָזָה)」ます。

私は「仰ぎ見(ハーザーחָזָה)」ます。

そこには「見つめ合う」という関係性があります。

詩篇16:8a
私はいつも 主を前にしています。

ダビデは、常に主を「前にして」いると言っています。

まさか、主がダビデに背を向けておられるとは思えないので、ここは「向かい合っている」と解釈してもよいでしょう。

主は、ダビデを「見て」おられます。そして、ダビデもまた主を「仰いで」いるのです。

私たちは、主と「向かい合って」生きているのです。

ヘブル12:2a
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

あなたが「目を離さない」でいるならば、主があなたから目を離されることは決してありません。

「直ぐな人」にとって、主の御目を見つめることは恵みを発見することです。

主よ、私を見通してください
私は、あなたを仰ぎます
主イエスの血潮により正しい関係にあることを感謝します