申命記32:11~12
鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように、ただ主だけでこれを導き、主とともに異国の神はいなかった。
鷲はひなを羽に乗せて運びます
鷲の母親がヒナ鳥を運ぶ姿をアンドリュー・マーレー牧師が教えてくれています。
高いところに岩棚があり、そこに鷲の巣があって、親鳥の宝物である二羽のひながいます。母鷲が来ます。巣を揺すぶります。その口ばしで臆するひなたちを絶壁に押しやります。ああ、ひなたちは両翼をバタバタさせながら、真っ逆さまに落ちて行きます。その時、母鷲は「そのひなの上を舞かけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行く」のです。ひなたちが母鷲の背にのると、母鷲は彼らを安全な場所へと運びます。そしてまた、同じことを幾度も繰り返します。
神を待ち望め アンドリュー・マーレー著 いのちのことば社
母鷲が「ひなを突き落とす」のは安全な場所に運ぶためです。それを繰り返すのは「飛び方」を教えるためです。
突き落とされるヒナたちは、その瞬間「恐怖の絶頂」を味わいます。必死で小さな翼をバタバタさせながら、なんとか飛ぼうとするのです。
しかし、ヒナたちは、まだ一人で飛ぶことはできません。
主は、私たちが「恐怖の絶頂」を味わうことを、時に「許可」されます。「なぜ、こんなことが起こるのか」と絶望するようなことが、聖徒であっても起こるのです。しかし、それは「見離された」のではないということを忘れないでください。
私たちは、自分で飛ぼうと必死でもがきます。絶対に落ちないぞ、落ちてたまるかと思います。
しかし、もがけばもがくほど落ちるスピードは増すのです。
「もうダメだ。落ちるしかない」そう観念して、自分の力を抜いた時、私たちは「ふわり」と浮くのを感じるでしょう。
主は、あなたの力が「抜けた」とき、その羽を広げ、あなたを受けてくださるのです。
イスラエルは、そのようにして「荒野」を運ばれました。
イスラエルは「モーセは、荒野に導きだし、飢え死にさせようとしている」と叫びました。
しかし、荒野に導かれたのは主ご自身です。そして、主が「荒野」に導びかれたのは「主の栄光」を見せるためであり、約束の地に導かれるためでした。
主は、私たちを「呼び覚まし」ます。
私たちは、時に「断崖絶壁」に追いやられ「落とされた」ように感じるかもしれません。
しかし、主が「呼び覚ます」のは「そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行く」ためです。
そして「ただ主だけでこれを導く」ことができるのだと示されるためです。
そこに「異国の神」は必要ないのです。
主以外の「力」は必要ありません。世の中のどんな「知恵」や「力」や「富」も必要ありません。あなた自身の「知恵」も「経験」も「力」も必要ありません。
「ただ主だけで」私たちは安全な場所、天の御国に導かれます。
私たちは「バタバタ」するのをやめましょう。それは落下を止めません。
主が「舞いかけて」来てくださいます。その翼は力強く、その羽は広いのです。
私たちは、その羽に乗せられて、ただ運ばれればよいのです。
落ちて、運ばれることを繰り返し、そのようにして、ヒナは飛び方を覚えるのです。
主の御翼に運ばれることを感謝します
私は、ジタバタするのをやめます
主にすべてを委ねます