No.274 みことばを「滑らせて」はなりません

滑り台

ヘブル2:1
こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

押し流されないようにしなければなりません

「押し流される」とは「滑る」とも訳せるようです。

「押し流される」とは「滑る」とも訳されます。
イエスから目を離さないでいなさい 有賀喜一著 いのちのことば社

私たちは、せっかく心に留めた御言葉を滑らせてしまうことがあるのです。

ヘブル4:2
というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども、彼らには聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。

もし、私たちが「聞いたみことば」を信仰によって心に結び付けないのなら「滑り落ちて」しまうのです。

「いのちのことば」をいくら聞いたとしても「滑り落して」しまうなら、そこから「いのちの泉」が湧くことはないでしょう。

箴言4:23~24
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
曲がったことを言う口をあなたから取り除き、ゆがんだことを言う唇をあなたから遠ざけよ。

たいていの場合、御言葉は私たちの口から滑り落ちます。

民数記13:30
その時、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」

民数記13:31
しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちよりも強い。」

12人の斥候たちは、みな「同じものを見た」のです。約束の地は「すこぶる良い地」でした。主の用意された地は素晴らしいところでした。

しかし、二組の意見は真反対のものでした、

信仰によって心に「神のことば」を結び付けたカレブとヨシュアは「必ず打ち勝てる」と宣言しました。

残りの10人は「無理だ。敵は私たちより強い」と言いました。

10人の心には御言葉が信仰によって結びつけられていなかったからです。

彼らに与えられた御言葉は、彼らの口のことばによって「滑り落ちて」しまったのです。

彼らは「押し流されて」しまったのです。

「押し流される」なら、その後には何も残りません。「押し流された」なら「すべてが流される」のです。つまり「失う」ということです。

約束の地に入ることができたのは、信仰を「宣言」したカレブとヨシュアだけでした。

「押し流される」とは、あるいは「無頓着である」「軽視する」とも訳せます。

「曲がった口」「ゆがんだことを言う口」を私たちから取り除きましょう。

御言葉を「軽視」してはなりません。

軽々しく「そんなこと無理だ」「それは出来ない」などと言ってはなりません。それは「口から御言葉を滑り落す」ことです。

御言葉の約束に「無頓着」であってはなりません。御言葉には「執着」した方がよいのです。

私たちは「宣言」しましょう。

「主の約束は必ず成る」

「私たちのうちにいる方は、この世のあの者より強い」

「主に不可能なことは一つもない」

日々、信仰によって「みことばを心に結び付け」ましょう。

決して「押し流されて」はなりません。

私は押し流されません
私は主のみことばを信じて告白し続けます