黙示録22:5
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。
もはや夜はありません
私は、たいていの本を「結末」から読みます。なぜなら、先が分かっていると「安心」だからです。
主人公が「苦難」にあっても、結末は「幸せ」なのだと分かっていれば、ドキドキせずに読み進められるからです。つまり、私は「物語」に刺激を求めてはいないのです(笑)
コーリー・テン・ブームの著作の中に、私と同じ「本の読み方」をする牧師さんを発見して嬉しくなりました。
ひとりの牧師が、あるとき私にこう言いました。
「私は悲しい小説を読むのは、いやです。ただ、どうしても読まなければならないときは、まず最後のページを読みます。もし主人公たちが、ラストシーンで幸せに暮らしていたならば、私は、それからその本を全部読みます。結末が良いからです。」
私たちの聖書の読み方も、こうあるべきです。私たちは、イエスが再び来られる前に何が起こるかを見て、震えあがります。でも、怖くなったならば、最後のページを読みなさい。そこには、イエスがもう一度来られ、私たちは顔と顔を合わせて、イエスを見ることができると約束されています。
日ごと新たに コーリー・テン・ブーム著 日本ホーリネス教団発行
「人生は一冊の本である」と言った人がいますが、確かに、私たちは「人生」という「物語」を紡いでいるようです。
私は「物語」に刺激を求めはしませんが、生きている限り「刺激的なこと」は避けられないようです。
すべて「神の光の御手にある」と信じて歩んでいるけれど、心が迷子になってしまって「暗闇の中」を歩いているような気分になることが時々あります。
方向を見失って立ちすくむというようなことが、時々、起こるのです。
「どこに向かっているのか」
「いつまでこの状態が続くのか」
「本当にこの道は正しいのか」
そのように思うことが、私たちの「人生の物語」には、時々、起こるのです。
「光がない」
「出口がない」
そう感じて立ちすくむならば「物語の最後のページ」読みましょう。
聖書には「主にある聖徒の結末」がはっきりと記されています。
私たちは「夜がない」ところ導かれています。
「神である主が照らされる光」によって「ともしび」も「太陽」も不必要なのです。
そこでは「どこにいるのか分かない」ことはなくなります。「先が見えない」という状態はあり得ません。
「今」をどれほど「暗く」感じたとしても、物語の結末は「明るい」のです。
もし「今」何も見えないと思うなら「先」を見なさい。ずっと「先」を見るのです。物語の一番最後を確認するのです。
あなたの結末には「夜がない」ことを覚えてください。
私たちの結末は「光にあふれて」います。
私の結末は「光にあふれて」います
私は必ず「主と顔と顔を合わせて」お会いします
私は信仰によって歩みます