No.269 私は「群衆」ではなく「弟子」として歩みたいのです!

キリンとサファリ

マタイ28:19a
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人を弟子としなさい。

イエス様が求めておられるのは弟子です

イエス様が求めておられるのは「弟子」であることが分かります。

主は、昇天される前、最後に言われたのです。それは最も大事なことであると考えて間違いないでしょう。

私の牧師は、口癖のように言っていました。

「イエス様にファンはいらないよ。必要なのは弟子だけね」

私たちは「弟子」でしょうか?

ヨハネ6:26
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

5つのパンと2匹の魚で「満腹」した群衆は、イエス様を捜し追いかけて来ました。

彼らがイエス様を追いかけてきたのは「満腹」したからです。そして、イエス様について行けば「いつでも満腹できる」と考えたからです。

彼らにとって「パンの奇跡」は「しるし」とはなりませんでした。

ペテロが告白したように「あなたは生ける神の子キリストです」と言わなければなりませんでした。

けれど「群衆」にとって大切なのは「自分を満腹にさせてくれる人」であって「救い主」ではなかったのです。

ヨハネ6:27
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。

「なくならない食べ物」とは「いのちのことば」のことです。つまり「イエス様のこと」と言ってもいいでしょう。

「わたしはいのちのパンです」と言われる方を慕い求める者が「弟子」です。

「群衆」は、イエス様を通して「満腹するパンと魚」を見ます。

「弟子」は、「パンと魚のしるし」を通して「キリスト」を見ます。

「物と事」だけを求めるなら、私は「群衆」です。

「いのちのことば」だけを求めるなら、私は「弟子」です。

「物と事」が与えられたときだけ感謝するなら、私は「群衆」です。

「どのような境遇でも満ち足りることを学ぶ」なら、私は「弟子」です。

「自分の思った通りにならない」ことで怒るなら、私は「群衆」です。

「御心が成りますように」と祈るなら、私は「弟子」です。

「パン」をもらって満足するだけなら、私は「群衆」です。

裂かれた「パン」を一緒に配るなら、私は「弟子」です。

イエス様は「群衆」をあわれんでくださいます。主は「群衆」を「かわいそうに」思ってくださいます。

「群衆」に「パン」を与えて「満腹」にしてくださいます。

しかし、御そば近くに置かれ奥義を解き明かされるのは「弟子」にだけです。主は「弟子」には「心のうち」を明かされます。

イエス様は「弟子」を求めておられるのです。私たちに、その「心のうち」を明かしたいと願っておられるのです。

あなたは「群衆」ですか?

それとも「弟子」ですか?

私は「弟子」でありたいと願います。

「物と事」ではなく、イエス様ご自身を慕い求め「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しつつ歩みたいのです。

「群衆」から抜け出して、御そば近くに置かれる「弟子」として歩みたいと、切に願います。

私は「永遠のいのちに至る食物」のために働きます
私は、ただ「いのちのパン」である方を慕い求めます
あなたこそ生ける神の子キリストです