マタイ28:19a
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人を弟子としなさい。
イエス様が求めておられるのは弟子です
イエス様が求めておられるのは「弟子」であることが分かります。
主は、昇天される前、最後に言われたのです。それは最も大事なことであると考えて間違いないでしょう。
私の牧師は、口癖のように言っていました。
「イエス様にファンはいらないよ。必要なのは弟子だけね」
私たちは「弟子」でしょうか?
5つのパンと2匹の魚で「満腹」した群衆は、イエス様を捜し追いかけて来ました。
彼らがイエス様を追いかけてきたのは「満腹」したからです。そして、イエス様について行けば「いつでも満腹できる」と考えたからです。
彼らにとって「パンの奇跡」は「しるし」とはなりませんでした。
ペテロが告白したように「あなたは生ける神の子キリストです」と言わなければなりませんでした。
けれど「群衆」にとって大切なのは「自分を満腹にさせてくれる人」であって「救い主」ではなかったのです。
「なくならない食べ物」とは「いのちのことば」のことです。つまり「イエス様のこと」と言ってもいいでしょう。
「わたしはいのちのパンです」と言われる方を慕い求める者が「弟子」です。
「群衆」は、イエス様を通して「満腹するパンと魚」を見ます。
「弟子」は、「パンと魚のしるし」を通して「キリスト」を見ます。
「物と事」だけを求めるなら、私は「群衆」です。
「いのちのことば」だけを求めるなら、私は「弟子」です。
「物と事」が与えられたときだけ感謝するなら、私は「群衆」です。
「どのような境遇でも満ち足りることを学ぶ」なら、私は「弟子」です。
「自分の思った通りにならない」ことで怒るなら、私は「群衆」です。
「御心が成りますように」と祈るなら、私は「弟子」です。
「パン」をもらって満足するだけなら、私は「群衆」です。
裂かれた「パン」を一緒に配るなら、私は「弟子」です。
イエス様は「群衆」をあわれんでくださいます。主は「群衆」を「かわいそうに」思ってくださいます。
「群衆」に「パン」を与えて「満腹」にしてくださいます。
しかし、御そば近くに置かれ奥義を解き明かされるのは「弟子」にだけです。主は「弟子」には「心のうち」を明かされます。
イエス様は「弟子」を求めておられるのです。私たちに、その「心のうち」を明かしたいと願っておられるのです。
あなたは「群衆」ですか?
それとも「弟子」ですか?
私は「弟子」でありたいと願います。
「物と事」ではなく、イエス様ご自身を慕い求め「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白しつつ歩みたいのです。
「群衆」から抜け出して、御そば近くに置かれる「弟子」として歩みたいと、切に願います。
私は「永遠のいのちに至る食物」のために働きます
私は、ただ「いのちのパン」である方を慕い求めます
あなたこそ生ける神の子キリストです