【マタイ16:24~25】
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
自分とは捨てるべきものです
イエス様は「自分を捨て」ついて来なさいと言われました。
「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失う」とも言われました。
ここで「いのち」と訳されていう単語は、「たましい」とも訳せます。ほかの箇所(マタイ10:28など)ではたましいと訳されています。
つまり「自分のたましいを救おうと思う者は、それを失い」とも訳せるのです。
「たましい」とは、「心」であるとした方が分かりやすいかもしれませんね。(完全に=ではないけれど細かいことは置いておきます)
私たちは「心(たましい)」で考え、感じ、決定します。
私たちは、「心(たましい)」を大切にしています。
「自分らしく、心のままに生きよう」などと言います。
けれどイエス様は、はっきりと「自分を捨て」と言われました。
「自分らしく、ありのまま」で良いなら、イエス様は、なぜ私たちのために十字架に架けられたのでしょう。
「自分らしく、ありのまま」では、滅びてしまうので十字架に架かってくださったのです。
私たちは、神様の知識に逆らって立つ心の高慢を打ち砕きます。
そして、すべての「はかりごと(計画)」をイエス様に服従させます。
自由に生きること、自分らしく生きること、御霊の支配の下でそうであるならば、それは素晴らしいことでしょう。
しかし、それが「自分の心のままに生きる」ということであるならば、そのままではイエス様について行くことはできません。
日々、自分を捨て、そして、ついて来なさいとイエス様は言われたのです。
私たちは、「心(たましい)」すなわち「考え・感じ・決定すること」をイエス様に服従させます。
私は確信しています。
もし、あなたが、日々自分を捨てて主に従うならば、すべてのはかりごと(計画)を主に服従させるなら、自分らしさを捨てて、御霊に導かれて歩むなら…
あなたは、本当の自分らしさを得るでしょう。
世の光として最高に輝くことができるでしょう。
なぜなら、主のために「いのち(たましい)」を失う者は、それを得るからです
私は、自分のすべての考え、思い、決定をイエス様に服従させます。
私は、自分を捨てイエス様について行きます。