ヨハネ5:5~6
そこに、三十八年間も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」
その人は長い間、水を見ていたのです
「長い間」彼は、水を見つめて生きていました。池の水が動いたとき最初に池に入った者は癒されると信じていたからです。
しかし恐らく、彼は池まで辿り着いたことすらなかったでしょう。
イエス様が「良くなりたいか」と尋ねられた時、彼は「はい」とは答えませんでした。
ただ、癒されない理由を答えたのです。
「一人では無理なんですよ。他の人みたいに素早くは動けないので。誰も手伝ってはくれないし、必ず先を越されるのでね」
そうです。常識的に考えれば、素早く動けない彼は最初に池に入る人にはなれないのです。そんなこと、誰にでも分かることでしょう。なぜ、彼は「長い間」池の水を見続けているのでしょう。
それは、諦めきれないからです。そして、他に何をすればよいか分からないからです。
「水」とは「みことば」を象徴するとは良く言われることです。
彼は、たぶん、誰よりも「池の水」に詳しかったのではないかと思います。
もしかすると「池の水」が動く前兆について詳しく説明できたかもしれません。そろそろ「動きそうだ」と感じることもあったかもしれません。
そのような彼にイエス様は聞かれたのです。
「良くなりたいか」
その時、彼の目は「池の水」から離れました。
どれだけ「みことば」を学んだとしても、どれだけ詳しく語ることができたとしても、イエス様から目を離したままでは「何も機能」しないのです。
「ベテスダの池」は、もしかすると「律法」の象徴かもしれないなと私は思います。
「こうでなければならない」という決まりに囚われることを意味しているのかもしれません。
良かれと思って「みことば」を学び続けているけれど、イエス様から目を離してしまっては「ただの学問」「戒め」となってしまうでしょう。
「池の水」から目を離しなさい。どうすれば良いか分からないなら、イエス様を見なさい。
そうでなくても、そこでなくても「奇跡」は起きます。
あなたが見つめている「こうあるべき」「そうでなければならない」ということから目を離しなさい。
たとえそれが「良い」ものであっても、律法にはあなたを解放する力はありません。
それは「自由」から始まったものかもしれません。確かに最初は「主イエス」を見つめていたのでしょう。
しかし、ある時から「ここでなければ」「そうしなければ」奇跡は起こらないと考えてしまうのです。新しい「ベテスダの池」を生み出してしまうのです。
主は、私たちを縛り付けているものから「解放」したいと望んであおられます。
「良くなりたいか」と尋ねてくださる主を見上げましょう。
そこに本当の解放があります。
本当に御言葉を知るということは「いのちのことば」である方を知ることです。
私は主イエスを見続けます
良いものではなく「良い方」を見つめます