ローマ5:8
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
最悪から始まったのです
これ以上ないほど「最悪だ」と思う日があります。
私の「最悪」は、たびたび更新されますが、その時には、それが「最悪」であると感じるのです。
自分のことが、ほとほと嫌になります。もう何もかも無理だと放り出したくなります。惨めな気持ちになって、誰もかれもが敵みたいに思えます。
しかし、そのような時でも「聖日」はやって来ますし「祈り会」の日だって来ます。
「重い心を引きずる」とは、まさにこのことかと思いながら、時間が来たので賛美をささげます。
「今日は、絶対に臨在など感じることはできないだろう」と思いながらです。
しかし、そのような状態であっても「天が開ける」ことはよくあります。いえ、そのような状態のときに限って「天が開ける」と言い換えたほうがいいかもしれません。いつでもではありませんが、かなりの頻度でそうだと言えます。
私は「期待せずに礼拝せよ」と言っているのではありません。もちろん、喜んで賛美をささげるほうが良いに決まっています。
しかし「もうダメだ」「みじめだ」「自分が嫌になる」という気持ちを引きずったままであったとしても「恵み」は変わらないということです。
自分が「ダメだ」と思う状態なので、いつもと同じ「恵み」が、余計に大きく豊かだと「感じる」のかもしれません。
このような状態であっても「恵み」が与えられることに感動します。「罪の増し加わるところに、恵みの満ちあふれる」とは真理なのだなと感動するのです。
覚えてください。
主の「愛」は、あなたの「最悪な日」にも真理です。
主に愛は、私たちの最悪な日にこそ、用意されているものです。
「もうダメだ。受け入れてはもらえないだろう」と思うときこそ「主の愛」は輝きます。
イエス様は「飼葉桶」に眠られました。いとも安らかに笑みを浮かべて。
「飼葉桶」は、生まれたばかりの赤ちゃんにとって「快適で衛生的な寝床」であるとはとても言えません。
初めからそうなのです。
あなたがの心が「快適で衛生的な状態」でなくても、イエス様の愛が変わることなどありません。
「もっと祈れるようになったら」
「もっと聖なる心を持てたら」
「せめて、一日30分でも祈れるようになったら」
あなたが、主の御前に出るために「心を整えよう」とする努力は立派です。それが無駄に終わったとしても。
しかし、「今日は最悪だ。自分が大嫌いだ」と思うような日であったとしても、主の愛が変わることはありません。
イエス様は、私たちが「罪人であったとき」「弱かったとき」「不敬虔であったとき」「敵でさえあったとき」に、十字架に架かって「死なれた」のです。そうして「愛を明らかに」されたのです。
始まりは「最悪」でした。
私たちに愛が示されたとき、私たちの状態は「最悪」でした。
しかし、その時「愛を明らかに」されたのです。
今日、もし、あなたが「こんなに最悪な日はない。今日の自分が一番みじめだ」と思うのなら、イエス様の「愛が明らか」になることを期待してよいでしょう。
あなたの「最悪な日」のために、主の愛は明らかにされたのです。