ルカ8:7
また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。
茨も一緒に生えました
茨の真ん中に落ちた種は「ふさがれて」生長することができませんでした。
私たちは確かに「みことばを聞いた」のです。ですから私たちは芽を出しました。しかし、ある程度までしか成長しません。主が約束してくださった「豊かな実」を実らせているとはとても言えません。
それは、なぜでしょう。
それは「ふさがれている」からです。「茨」が生長を妨げているのです。
「主を信じます」と告白しながら「思い煩い」を育てているならば、私は「ふさがれて」います。
「主に信頼します」と言いながら「金銭に頼っている」のなら、私は「ふさがれて」います。
「主を愛します」と賛美しながら「世の快楽を慕っている」のなら、私は「ふさがれて」います。
「ふさがれて」いるのなら、それ以上に生長することはないでしょう。
イエス様は「思い煩うマルタ」に言われました。
「必要なことは一つだけ」なのです。
マリアは「主の足もとに座って、主のことばに聞き入る」ことを選びました。
使徒ヨハネが伝えたのは「いのちのことば」についてです。
私たちが「いのちのことば」について聞いたのは「交わり」のためです。その交わりとは「御父また御子イエス・キリストとの交わり」です。
「いのちのことば」は、主との交わりのために伝えられたのです。
あなたの願う「一つのこと」は何ですか?
マリアの選んだ「良いほう」は、私たちにとっても「良い」のです。
イエス様だけに「目を注ぐ」なら、私たちは「思い煩い」「富」「快楽」に「ふさがれて」しまうことはありません。
私はイエス様に目を注ぎます
「いのちのことば」を感謝します
主との交わりの中に入ることを感謝します