ヨハネ21:9
こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
ペテロは漁に行きました
よみがえられたイエス様が姿を現してくださったことは、弟子たち全員が分かっていました。
彼らは、イエス様の姿を見ましたし、魚を召しあがられたのも見ました。彼らは、主の御手の傷跡も見ましたし、恐らく、その傷跡に触れもしたのです。
しかし、イエス様は、また消えてしまわれました。
彼らは、一つの部屋に固まって、ビクビクと隠れているのはやめました。
しかし、かといって、これから何をすればよいのか、よく分からなかったのでしょう。
とりあえあず、元の仕事に戻って見たものの、みな、今までとは何かが違うと感じていたのではないでしょうか。
彼らは、夜の間、網を降ろしていたようです。しかし、案の定と言っていいでしょう、「その夜は何も捕れなかった」のです。
彼らは、ただ、くたびれただけでした。
夜が明け始めました。
弟子たちは、まだ知りませんでしたが、その岸辺にはイエス様がおられました。
イエス様は、弟子たちをじっと待っておられたのです。
イエス様は、弟子たちに声をかけられました。
この大漁は、彼らが漁師に戻ることを祝福しておられるということではありません。これは、神の御力の啓示です。
主は、彼らが網を打つ前に、すでに「食事」を用意してくださっていました。
何も心配することはないのです。
イエス様は優しい方です。私たちの必要のすべてをご存じです。
どうすればよいのか分からないなら、夜明けまで待つのです。
肉は常に動きたがりますが、イエス様の指示なしに行動しても疲れるだけで実りはありません。
この場面には、イエス様と弟子たちの思い出が詰まっているように思います。
イエス様が「深みに漕ぎ出し、網をおろしなさい」と言われたときのことを、ペテロは思い出したでしょうか。
岸辺に用意された「魚とパン」を見て「五千人が満腹」したことを、ピリポは思い出したでしょうか。
パンを取ってくださったとき、ヨハネはイエス様の胸に寄り掛かった過ぎ越しの食事を思い出したでしょうか。
彼らはみな、何の心配もないのだということを悟ったでしょう。
主は、ご一緒にいた間、必要なすべてを知らせてくださり、体験させてくださったのだと理解したでしょう。
彼らは、乏しくなったとき、何をすればよいか分からなくなった時、イエス様が岸辺に立たれたことを思い出しただろうと思います。
イエス様と、炭火を囲んで魚とパンを食べたことを思い出したでしょう。
姿を消されても、主は、何もかもご存じでした。主は、生きておられるのです。
私たちも悟りましょう。何の心配もないのです。
弟子たちへの「朝ごはん」は、そのことを意味しているのです。
主は、私たちにも教えてくださいます。悟らせてくださいます。御力を見せてくださいます。
主は、私たちにも備えてくださいます。
私たちは、ただ、主を信頼していればよいのです。
私は主を信頼します
主を待ち望みます
主はすべてを備えてくださいます