No.247 「何のために?」もちろん「イエス様のために」です!

ゼラニウム

マルコ14:4
すると、何人かの者が憤慨して互いに言い合った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。

弟子たちは「何のために無駄にしたのか」と言いました。

マルコ14:3
さて、イエスがベタニヤで、ツァラトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持ってきて、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。

この女性は、惜しげもなく「非常に高価なナルド油」をイエス様に注ぎました。

その場は、香油の香りで満ち溢れたことでしょう。その香りは、イエス様を喜ばせる香りでした。

香油は「埋葬のための備え」であるとイエス様は言われたのです。

しかし、弟子たちは憤慨しました。彼らは言います。

「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか」と。

「何のために」

彼らは見ていなかったのでしょうか?

「イエス様のために」です。

彼らは、香油を「無駄に使った」と女性を責め立てました。

つまり「もったいない」「浪費だ」と言って怒っているのです。


「あなたはじっと座っており、多くのことをしないから人生を浪費している」と誰かが、あなたに言わなかったでしょうか。それらの人は言います。「あの人たちは出て行って、これこれの仕事をすべきだ。あの人たちは、あの群れを助けるために用いられるべきだ。それなのに、どうして彼らは積極的でないのか。」と。
このように言う人たちの中心思想は、用いられるの一言につきます。彼らにとっては、すべてのものが彼らの理解している方法で、十二分に用いられなければ、気が済まないのです。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社

弟子たちの中心思想も「用いられる」ということであったのです。それも、彼らが「正しい」「こうあるべきだ」という方法に添った「用いられ方」でなければならないのです。

香油は「貧しい人」のために「用いられるべき」であると彼らは言ったのです。それ以外の「用い方」であれば、それは「無駄」にしたとみなされるのです。

正直に告白すれば、私も「用いられたい」と思っていました。自分のすべてを、主に「用いて」いただきたいと願っていました。私の中心思想も「用いられる」ことであったのです。

しかし「用いられる」ことは、一番大切なことではないのです。

ナルドの香油の壺を割った女性は、その香油を「無駄にした」とは思わなかったでしょう。

たった一度、その瞬間、主エスの心を喜ばせることができるなら、たとえ「300デナリの価値」のある香油でさえ「惜しい」とは思わなかったのです。

主は、彼女の思いを喜ばれました。また、高く評価されました。

マルコ14:9
まことに、あなたがたに言います。世界中どこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。

「福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも」語られるとイエス様は言われたのです。

「福音が語られるところ」、全時代の全世界で「この人のしたこと」が語られるのです。

彼女は、ただ「香油の壺」を割っただけです。

しかし、それは「惜しみなく」なされました。そして、ただイエス様のためだけになされました。

私たちの生きる時を「イエス様のためだけに」注ぎましょう。私たちのすべてを「イエス様のためだけ」に注ぎだしましょう。

それは「惜しい」ことですか?

それは「無駄」でしょうか?

イエス様には、それだけの「価値」があります。

私は「用いられる」ことではなく、「主を喜ばせる」ことにすべてを注ぎたいと願います。

主よ、あなたこそ私の喜びです
あなたの心を喜ばせることができますように