マルコ14:4
すると、何人かの者が憤慨して互いに言い合った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
弟子たちは「何のために無駄にしたのか」と言いました。
この女性は、惜しげもなく「非常に高価なナルド油」をイエス様に注ぎました。
その場は、香油の香りで満ち溢れたことでしょう。その香りは、イエス様を喜ばせる香りでした。
香油は「埋葬のための備え」であるとイエス様は言われたのです。
しかし、弟子たちは憤慨しました。彼らは言います。
「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか」と。
「何のために」
彼らは見ていなかったのでしょうか?
「イエス様のために」です。
彼らは、香油を「無駄に使った」と女性を責め立てました。
つまり「もったいない」「浪費だ」と言って怒っているのです。
「あなたはじっと座っており、多くのことをしないから人生を浪費している」と誰かが、あなたに言わなかったでしょうか。それらの人は言います。「あの人たちは出て行って、これこれの仕事をすべきだ。あの人たちは、あの群れを助けるために用いられるべきだ。それなのに、どうして彼らは積極的でないのか。」と。
このように言う人たちの中心思想は、用いられるの一言につきます。彼らにとっては、すべてのものが彼らの理解している方法で、十二分に用いられなければ、気が済まないのです。
キリスト者の標準 ウオッチマン・ニー著 いのちのことば社
弟子たちの中心思想も「用いられる」ということであったのです。それも、彼らが「正しい」「こうあるべきだ」という方法に添った「用いられ方」でなければならないのです。
香油は「貧しい人」のために「用いられるべき」であると彼らは言ったのです。それ以外の「用い方」であれば、それは「無駄」にしたとみなされるのです。
正直に告白すれば、私も「用いられたい」と思っていました。自分のすべてを、主に「用いて」いただきたいと願っていました。私の中心思想も「用いられる」ことであったのです。
しかし「用いられる」ことは、一番大切なことではないのです。
ナルドの香油の壺を割った女性は、その香油を「無駄にした」とは思わなかったでしょう。
たった一度、その瞬間、主エスの心を喜ばせることができるなら、たとえ「300デナリの価値」のある香油でさえ「惜しい」とは思わなかったのです。
主は、彼女の思いを喜ばれました。また、高く評価されました。
「福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも」語られるとイエス様は言われたのです。
「福音が語られるところ」、全時代の全世界で「この人のしたこと」が語られるのです。
彼女は、ただ「香油の壺」を割っただけです。
しかし、それは「惜しみなく」なされました。そして、ただイエス様のためだけになされました。
私たちの生きる時を「イエス様のためだけに」注ぎましょう。私たちのすべてを「イエス様のためだけ」に注ぎだしましょう。
それは「惜しい」ことですか?
それは「無駄」でしょうか?
イエス様には、それだけの「価値」があります。
私は「用いられる」ことではなく、「主を喜ばせる」ことにすべてを注ぎたいと願います。
主よ、あなたこそ私の喜びです
あなたの心を喜ばせることができますように