ヨハネ1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
イエス様は、私たちの間に住まわれます
ことばである神は、人となってくださいました。
「人」とは直訳すると「肉」です。
目に見えない霊である方が、目に見える不自由な「肉」をまとわれたのです。
「住まわれた」とは、「幕屋を張られた」とも訳せます。
その昔、イスラエルとともに歩むために幕屋に栄光を現わしてくださったように、主は「肉」をまとわれ、その栄光を現わしてくださったのです。
幕屋の外側が黒い布で覆われていたように、イエス様も華やかな方ではありませんでした。
イエス様は、華やかな目立つような方ではありませんでした。パッと人目を引くような外見ではなかったということでしょう。
しかし、使徒ヨハネは言います。
ヨハネは「この方の栄光を見た」のです。この方は「恵みとまことに満ちておられた」のです。
この方こそ「生ける神の御子キリスト」なのだと弟子たちは悟ったのです。
しかし、それは、普通では分からないことでした。
イエス様のことを「生ける神の子キリスト」だと認めることのできる人は幸いです。
それは「血肉」ではできないことだからです。
イエス様の栄光を見ることができるためには「目が開かれる」必要があるのです。
パウロの目からウロコが落ちたように、私たちの心の目も開かれなければなりません。
イエス様は「人となられ」「ともに住まわれる」ために来てくださいました。
主は、ともにおられるのです。インマヌエルなる方は、私たちと常にともにいてくださるのです。
その栄光は「血肉」では見えません。その姿は、一見、地味で栄光が溢れているようには見えません。
私たちの毎日の生活も同じです。派手な出来事ばかりが起こるわけではありません。むしろ、単調な繰り返しのように感じる日々です。
しかし、心の目がはっきりと見えるようになったなら、私たちは、きっと驚くことになるでしょう。
何でもない、ありふれた毎日の中に、主の恵みとまことがあふれているのが見えるようになれば、私たちの生活はガラリと変わってしまうでしょう。
主がともにおられます。
栄光あふれる方がともにおられるのです。
恵みとまことに満ちている方が、常にともにおられるのです。
目が開かれ、毎日、栄光を見ることができますように。
主の恵みとまことを知ることができますように。
主は、私とともにおられます
私は、主の栄光を見ます
私は恵みのうちに生かされています