ダニエル9:24
あなたの民とあなたの都については、七十週が定められている。
それは、背きをやめさせ、
罪を終わらせ、
咎の宥め行い、
永遠の義をもたらし、
幻と預言を確証し、
至聖所に油注ぎを行うためである。
ガブリエルがやって来ました
ダニエルは「預言者エレミヤにあった主のことば」によって、エルサレムの荒廃の期間が「70年」であることを悟りました。
そこで、ダニエルは「祈りと哀願」をもって主を求めたのです。
ダニエルは、祈りを続けていました。まだまだ続けて祈るつもりであったのです。しかし、そのダニエルの祈りは妨げられました。
ダニエルの祈りを妨げたのは「御使いガブリエル」でした。
「私が初めに幻で見た」というのは、8章の幻のことですね。
雄羊の角について「その意味を知りたい」と願ったダニエルの前に現れた「勇士のように見える者」がガブリエルです。
そして、今、またダニエルの前にガブリエルが現れました。恐らく同じ姿で「勇士のように」現れたのでしょう。
ガブリエルは、ダニエルに「悟りを与え、賢明にするため」に来たのです。御言葉の光が差し込むと人は悟りを得て賢明になります。ガブリエルは「主のみことば」を携えてやって来ました。
ダニエルが「祈り始めたとき」に「一つのみことば」が主から発せられたのです。
素晴らしいですね。ダニエルの祈りは「始めから」聞かれていました。そして「祈り終える前」に、すでに「みことば」が出されたのです。
さて、ガブリエルが来たのは「一つのみことばが出された」ためです。主は、ダニエルに「知らせたい」「悟らせたい」ことがあったのです。
「あなたが願いの祈りを始めたとき」と言うことは、ダニエルの「祈り」に関係することであるのは確かでしょう。
ダニエルは「エレミヤの70年」を知って「自分の民イスラエル」について祈っていたのです。主は「イスラエル」についての「ひとつのことば」をガブリエルに持たせて遣わされたのです。
あなたの民とあなたの聖なる都について
さて、ここからは「聖書預言の頂点」と呼ばれる、所謂「ダニエルの70週」について記されています。
今回は、70週の預言のすべては学びません。「最後の1週」については次回に学びたいと思います。
さて、ここで、私たちが、まず覚えておかなければならないことがあります。
それはこの預言が「あなたの民とあなたの聖なる都について」であるということです。
「あなたの」とは、もちろん「ダニエルの」という意味です。
ダニエルの民とは「イスラエルの民」のことです。そして、ダニエルの聖なる都とは「エルサレム」のことです。
この預言の中心は「イスラエルの民とエルサレム」です。それは「霊的イスラエル」のことはありません。本当のイスラエルについての預言です。
これを「教会」に当てはめて考えると、終末預言の全体を間違って解釈することになってしまいます。
イスラエルとエルサレムについて、ダニエルは願いの祈りをささげていました。
それは「もうすぐ定められた70年が来ます。どうかあわれんでください」という願いでした。
主は、そのダニエルに「70年捕囚の解放」以上のことを示されたのです。それは、本当の、そして最後の解放についてです。イスラエルが完成することについての「ことば」を与えられたのです。
ダニエルに与えられた「70週」の預言は、聖書の中で「最も範囲が広い」つまり「長い期間について」の預言です。そして、最も混乱する預言でもあります。
全部を理解することは困難です。諸説ありすぎて何が本当なのか見極めるのも大変です。
しかし、ガブリエルは「みことばを聞き分け、その幻を理解せよ」と言っていますから、私たちもできるだけ理解するように努めてみましょう。
七十週は490年です
さて、まず70週の解釈から考えてみましょう。
「定められた70週」は、大方の見解では「490年」を表すとされています。「490年」を表すということについては意見の相違は、ほぼありません。
しかし、なぜ「490年」を表すかという説明については諸説あります。
全部の説を紹介することはできませんので、一応、2つだけ紹介します。
「七十週」の文字通りの意味は「七個群」あるいは「七つずつが七十ある」ということである。この「七個群」は、時間、日、週、月、年などに用いられている。これは「一ダース」という言葉に似ており、数量に適用される。この文章の文脈から、私たちは、これは七年の七十倍という意味であることがわかる、
ダニエル書 H・Sペイズリー著 伝道出版社
「七十週」の「週」と訳されている語は、「七つ」で「一つ」と言う意味です。「1ダース」が「12個」を表すように、「1週」は「7つ」を表すわけです。
まあ、その「7つ」は「7日」とも言えるし「7年」とも言えるわけですが。
上記の引用では「文脈から、七年」と受け取ると解釈されています。ゆえに「7年×70」で「490年」とう計算です。なんとなく納得しますね。
ただ、この「7つ」を「7日」と解釈しても「490年」を導き出せるという説もあります。こちらの説の方が一般的です。
「7つ」を「7日」であると解釈します。
つまり「1週」を「7日間」とするということです。これは現代人には分かりやすいですね。
そして、神様の「日にちの数え方」を当てはめるのです。
主は「一日を一年と数えて」と言われました。ですから、「7日」を「7年」と解釈するわけです。
後の計算は同じです。いずれにしても「70週が490年」であることは同じなのです。
70週の終わりは千年王国の始まりです
70週が定められた「目的」について語られます。
- 背きをやめさせること
- 罪を終わらせること
- 咎の宥めを行うこと
- 永遠の義をもたらすこと
- 幻と預言を確証すること
- 至聖所に油注ぎを行うこと
私は、これらの6項目は「まだ成就されていない」という説に同意しています。
ただ、上記、1~3の項目については「キリストの初臨」のときに成就したという説には半分同意します。
確かにイエス様は、十字架で「背きの罪」を負われました。私たちは、イエス様を信じることによって救われます。その救いにあずかるのは「ユダヤ人」も「異邦人」も同じです。信じるならば「誰でも」救われるのです。
ゆえに、神様の側においては「罪を終わらせ」「咎の宥めを行うこと」はすでに成ったと言っても間違いではないと思います。なので、1~3の項目はすでに「成就した」という解釈に半分同意しているわけです。
しかし、イスラエルの側から見るならば、それはまだ「成就していない」と言わざるを得ません。
イスラエルの泉が開かれるのは、まだ先です
イスラエルは「みな救われる」とは「民族的救い」であると私は思います。
「イスラエル」は、まだ「背いたまま」です。イスラエルの救いは「これから」来ます。
「その日」とは終わりの日のことです。その日、主は「罪と汚れをきよめる一つの泉を開かれる」のです。その日、彼らの目は開かれます。
イエス様が再び来られる、その日、彼らは「自分たちが突き刺した者」を見て激しく泣きます。それは「わたし」つまり「イスラエルの神である主」であったのだと知って激しく泣きます。
主イエスこそ「罪と汚れをきよめる泉」であることを知るようになります。その日、主イエスの十字架の血潮が「自分たちのため」であったことをイスラエルは知ります。
しかし、それは「まだ先」のことです。70週が終わる時に、それは成就するのです。
イエス様の再臨によって「すべて」が成就します
主の再臨によって「すべての預言」は成就します。
千年王国が始まります。そして、永遠の義がもたらされます。新天新地が来る前に「ひと騒動」ありますが、主イエスの統治に変わりはありません。
主イエスの再臨によって「幻と預言が確証」されます。私たちは、すべてが「記されたとおり」であったことを誉めたてるでしょう。
千年王国では「神の神殿」が回復します。その「至聖所」に油が注がれます。千年王国の間、神殿のある「エルサレム」は世界の中心となります。
みことばが「エルサレム」から出るので、人々はみな「エルサレム」にやって来るのです。
主のみことばは必ず成ります。
私たちは、必ず、御前に立ちます。そして、主のみことばを力の限り誉めたたえるようになります。
70週の最後は「千年王国」の始まりなのです。
「千年王国」がないという説には、全く同意できません。黙示録を読めば明確に分かります。
新天新地が来る前に「この地上」に千年王国は確立されます。
そして、イザヤ書やエゼキエル書に記されたイスラエルに対する約束は、千年王国において「ことごとく」成就すると私は信じています。
主は必ず約束を守られます。
イスラエルには、その前に「70週」が定められているのです。
そして、この「70週」は「6つのこと」を成し遂げるための大切な期間なのです。
イスラエルは70週を経た後、必ず、このようになるのです。
70週は三区分できます
「ダニエルの70週」の預言は、「三区分」することができます。
- 最初の7週
- その次の62週
- 最後の1週
合わせて「70週」ですね。
この区分を一つずつ考えていきましょう。今回は「1」と「2」の前半部分までを考えていきます。
70週のスタート(起算点)はいつか?
「それゆえ、知れ、悟れ」と言われていますから、とても注意深く知ろうとする必要がありますね。
まず「エルサレムを復興し、再建せよとの命令が出てから」に注目しましょう。
これが「スタート」の合図です。
バビロンによって「エルサレム」は荒らされました。そして、バビロンが滅びた後、ダニエルが祈り求めたように「エルサレムが復興」されます。
「エルサレムを復興し再建せよ」との命令が出されたときから「70週」が始まります。
それでは「エルサレムを復興し再建せよ」と言う命令はいつ出されたのでしょう。分かりやすいと思われる説を一つ紹介します。
それは「ネヘミヤ記」の時代のことです。
ネヘミヤの願いは「ユダの地、先祖の墓のある都(エルサレム)を再建させてください」と言うものです。
「アルタクセルクセス王」は、その願いをかなえてくれました。
「何か心配なことでもあるのか?」という王の気遣いを受けて、ネヘミヤは願い事を申し出たのです。そして、それはかなえられました。
それが「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」の出来事だったのです。多くの人が、この日を起算点であると考えています。
さて、勅令は、これ以前にも数回発令されています。
それなのに「なぜ、ネヘミヤがもらった勅令を起算点にするのか?」と思われるかもしれませんね。
その理由は、ガブリエルのことばをよく読むと理解できます。
70週の起算点は「エルサレムを復興し、再建せよ」という命令がでてからだと記されています。「エルサレムの再建」が注目ポイントです。
確かに、キュロス王、ダレイオス王、さらに上記のアルタクセルクセス王の勅令が、これ以前に出されています。(アルタクセルクセス王はエズラにも勅令を与えているのです)
それらは、すべて「エズラ記」を読むと確認できます。
一つだけ引用しましょう。
これは、キュロス王の勅令です。(その他の王の勅令もエズラ記で確認できます。エズラ5章・エズラ7章を読んでください)
キュロス王の勅令は「イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ」です。
エズラ記における、他の王たちの勅令も「主の宮を建てるようにせよ」という内容です。
つまり「神殿建設の許可」であって「エルサレムの都の再建許可」ではないということです。
ネヘミヤは「崩された城壁」と「火で焼き払われたままの門」のことを聞いて心を痛めたのです。ゆえに「都の再建許可」を王に願い出ました。
エレミヤがもらったのは「都(エルサレム)の再建許可」です。
ゆえに、この勅令こそ「エルサレムを復興し、再建せよとの命令」であると考えられるということです。
もちろん、この説が「絶対に正しい」と言い切ることはできません。
「キュロス王の勅令こそ起算点とすべき」と主張している先生方の意見も「なるほどな」と思うものです。
詳しくは書きませんが、根拠とされる御言葉を一つだけあげておきます。
この「起算点」については、今のところ「断定」はできないけれど、たぶん「こんな感じだろう」という理解で充分なのかなと考えています(笑)
興味のある人は学びを深めてみてください。
翻訳の「。」と「と」について
さて、問題はここからです。
新改訳の翻訳は「再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが7週。」となっています。
この翻訳を素直に読むならば「命令がでてから、7週目に油注がれた者、君主が来る」と読めますね。
これが「混乱のもと」なのは確かです。
「油注がれた者、君主」とは「イエス・キリスト」のことであると私は理解しています。ほとんどの聖書教師の意見も同じです。
しかし、それだと「再建命令が出てから49年後」にイエス様が来られるということになってしまいます。
「アルタクセルクセス王の第二十年」とは、だいたいBC445年ごろと言われているのですから、まったく辻褄が合わないことになります。
この「。」つまり「句読点」が曲者らしいのです。
これは「。」とすることもできますし「と」、つまり英語で言うなら「and」と訳すこともできる文字だということです。
確かに、口語訳聖書では、「と」と翻訳されています。
ちなみに英語の聖書(NIVとKJV)では「and]と訳されています。確かに英語から翻訳された注解書には、この部分に関する「混乱」を見ることはありません。(私が読んだ限りにおいてですが)
私にはヘブル語のことはよく分かりません。何か「。」とした方が良いと思われる文法上のことがあるのかもしれません。
しかし、ここを「。」とすると、全く意味が分からなくなりますので、今回は「口語訳」にしたがって解釈したいと思います。
さて、そうするとこのように解釈することになりますね。
「再建せよとの命令が出てから、油注がれた者、君主が来るまでが『7週と62週』、苦しみの期間の間に、広場と堀が造り直される。」
つまり、油注がれた者、君主と呼ばれる方は「再建命令が出てから『7週と62週』後に現れる」ということになります。
足し算すると「69週後」です。
最初の区分である「7週」は、「神殿と都の再建」が行われる期間であると思われます。一応、区切りはあるけれど時代は続いていきます。
次の62週の間は、いわゆる「中間時代」のことであると思います。つまり、聖書に記載されていない時代のことです。
マラキ書からマタイの福音書の間のことは、聖書には「わずか」しか記されていません。それもダニエルの預言で語られているだけです。
その間、イスラエルには「苦しみ」があり「不安な時代」を過ごします。ギリシャ帝国の支配からローマ帝国の支配に移る時代です。11章の学びで少し触れます。
その時代に「7週と62週」つまり「69週目」が来ます。つまり「メシア」が来られるということです。
イエス様が来られ、断たれます
「その62週の後」すなわち「7週と62週の後」です。
ある博士の計算によると「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」から「69週後」とは、イエス様が「エルサレムに入場された日」とぴったり同じだと言うことです。
一年を「360日」で計算し「うるう年」なども加味したら、ちょうど「その日」になるというわけです。
実際、私も計算してみました。苦手だけど頑張りました。博士の言う通りの結果でした。私と同じように、多くの人が「計算」をして確認したことでしょう。だからこそ、この「計算がぴったり合う」という事実は結構広まっているのです。
しかし、それでも立ち止まって、ちゃんと考えてください。私は批判したいわけでも否定しているわけでもありません。ただ、考えて欲しいのです。
確かに「計算」は合います。びっくりしますよね。そして、預言の正確さに感動してしまいますよね。
しかし、冷静に考えてみましょう
計算が「合う」ことは間違いありません。
だけれど、起算点とする「アルタクセルクセス王の第二十年のニサンの月」が本当に「BC445年の3月14日」なのかは確認のしようがないのです。「BC445年」という年代そのものに「諸説ある」こともまた事実なのです。
「油注がれた者メシア」としてのイエス様の活動を「聖霊がくだられた日」とするべきだと言う意見もあります。別に私は、その意見を支持してはいませんが、そういう意見もあるのです。
多くの意見があるのです。そして、それらの意見を聞くと、たいてい「そうかもしれないな」と思うものです。先生方は、皆さん、ちゃんと学びをされて、その上で、意見を発表しておられるので説得力がありますよね。
私も、どの本を読んでも、どのメッセージを聞いても、「そうかもしないな」と常に心が動きます(笑)
つまり、何が言いたいのかと言うと…
どんなに偉い先生が「計算がぴったり合う」「これが正しい解釈だ」と言っても「みことば」で確証できないのならば、それを根拠にして預言の解釈をしてはならないと言うことです。
「そうかもしれないな」と思う程度で抑えてください。しっかり「みことば」で確認してから「信じて」ください。確認できなければ、ずっと「そうかもしれないな」でいいのです。そのうち分かるようになるでしょう。
これが言いたいがために、ややこしい起算点の話をわざわざしたのです。とても疲れました。
何度も言いますが「預言」は絶対に「私的解釈」をしてはならないものです。これだけは忘れてはなりません。
さて、先に進みましょう。
「69週目」に「油注がれた者」が来られます。しかし、「油注がれた者は断たれ、彼には何も残らない」と言われます。
主イエスは「初臨」のときには何も得られませんでした。むしろ「すべてを与えられ」るために来られたのです。
イエス様は「断たれ」ました。そして「彼には何も残り」ませんでした。
私たちは、イエス様が何を成してくださったのか知っています。
神のあり方を捨てて、ご自分を空しくしてくださいました。そして「十字架の死」にまで従ってくださいました。
私たちは、イエス様が「断たれる」ために来てくださったことを心に刻みましょう。
私たちも悟りによって賢明にされます
さて、ずいぶん長くなってしまいました。疲れましたね。この続きは次回学びたいと思います。
ガブリエルは「悟りによってあなたを賢明にさせようとして出て来た」と言いました。
私は、今、この預言を学ぶ私たちも同じように「悟りによって賢明に」なれると信じています。
確かに、ダニエル書の預言は「難しい」です。
そして、考えても、結局、「よく分からない」というのが結論なのです。
しかし、それでも、主は私たちに「知れ、悟れ」と言ってくださっているのです。
「みことばの戸」は開かれています。そして、そこから「光が差す」のです。
「預言の内容」を完全に解き明かすことができなくても「学ぶ」ことには意味があると私は信じます。
「光が差す」と「悟りが与えられる」のです。
そして、その悟りは、私たちを「賢明」にするでしょう。
「賢明」とは広辞苑によると「賢くて道理に明らかなこと」「適切な判断や処置が下せるさま」です。
私は、賢明になって「適切な判断がくだせる」ようになりたいと願います。
「みことばの戸」は開かれています。
私たちには「聖書」がありますし、導き手である「聖霊様」がおられます。
戸を閉ざしてはなりません。理解できなくても、学び続けましょう。
御言葉の学びは楽しいですよね。一つでも心に留めることができれば喜びがわきあがります。
一緒に続けて学んでいきましょう。
祝福を祈ります。