No.212 望み得ない時に望みを抱いて信じます

星空と車

ローマ4:18
彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。

まず、望みがないことを認めます

アブラハムには「望み」はなかったのです。

ローマ4:19
彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

アブラハムは、自分たち夫婦に望みがないことを「認めて」いました。信仰とは、現実を無視することではありません。

むしろ、信仰は「現実を認めること」から始まります。

アブラハムは自分たちが「死んだも同然」「死んでいる」ことを認識しました。もはや、自分たちには「望み」はないことを知っていました。

多くの人は信仰を誤解しています。

私たちは、なかなか「自分に望みがない」ことを認めることができません。ゆえに言うのです。

「信仰だ。信仰があればなんとかなるはずだ」と。

あなたが「信仰」に期待していることが、「物事が何とかなること」「物事が自分に有利に働くこと」であるならば、それはおそらく「何ともならない」でしょう。

「物」と「事」に目を向けている限り、本当の「望み」を抱くことはできません。

その「出来事」を、その「物事」を何とかしようと思っているとすれば、あなたは、まだ「望み」を得ているのです。

信仰は「望みがない」と認めることから始まるのです。

「手放しなさい」と、私は「私のたましい」に言います。私は、「もうダメだ」と認めなければならないのです。

「望みはない」のです。もう、それを「何とかしよう」としてはいけません。

アブラハムが完全に望みを持っていなかったことが聖書の記述から分かります。

創世記17:17
アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」

アブラハムは、完全に自分のからだとサラのからだを見限っています。

では、アブラハムの抱いた「望み」とはいったい何なのでしょう。

それは「神ご自身」です。

ローマ4:17b
彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。

アブラハムは、自分自身とサラのことは信じませんでした。自分たちにはもはや期待してはいませんでした。

しかし「主にとって不可能なことがあろうか」と言われる方を信じたのです。

アブラハムが望み得ない時に抱いた望みとは、主なる神ご自身でした。

ローマ4:21
神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。

信仰とは、物事が「どうにかなる」「何とかなる」だろうことを無理矢理に信じることではありません。

信仰とは、生ける神ご自身を「望み」として抱くことです。信仰とは、神には「実行する力がある」ことを信じることです。

「物と事」から目を離しましょう。そこに「望み」はありません。

もともと「望み得ない」ものが失われたり、壊れたり、思ったようにならなかったとしても、何を焦る必要があるでしょう。

私たちの抱く望みは、決して失われることも壊れることもありません。

なぜなら、私たちの望みは「神ご自身」だからです。

私は、主ご自身を信じます
私は、望みがない現実を認めます
ただ主だけが望みであることを告白します