No.202 私は信じて生きます

星を見上げる

創世記15:1
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

主のことばが臨みました

「これらの出来事の後」とは、ソドムに住んでいた甥のロトを救い出した後ということです。

アブラムは「恐れて」いました。彼は元気を失っていたのです。

アブラムから信仰のすべてが失われたのではありません。彼は「天と地を造られた方」を信じています。

しかし、身体は疲弊しています。ロトを救出するのに、激しく体力を消耗したでしょう。心には「やる気」が満ちません。「ケドルラオメル王たちが報復に来たらどうしよう」という恐れも沸き上がってきたのかもしれません。

そのような時、フッと「自分は何者なのか」「自分は一体ここで何をしているのか」「自分は何も持っていない」という思いに捕らわれてしまったのではないでしょうか。

アブラムは「将来に対する漠然とした不安」に怯えてしまったのではないかと私は思います。

「やっと成し遂げた」「順調だ」「勝利の生活を送れている」と思うようなとき、なぜか突然、心が不安に襲われます。なぜか突然、やる気を失ってしまいます。

サタンが「食いつくすべき獲物」を狙っているのだと、頭では理解していても、身体も心も思うようには働かなくなることがあります。

自分のしていることに「むなしさ」を覚えてしまうのです。頭では理解していても、心が「みことば」をはねのけてしまうのです。

創世記15:2
アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエルエゼルなのでしょうか。」

「報いは非常に大きい」と主はアブラムに言われました。

しかし、心も体も疲弊しているアブラムは、主のみことばを素直に聞くことができません。それも、もっともであると思います。

現実に、アブラムは何も手に入れてはいないのですから。カナンの地に「天幕」は張っていますが「土地」を持っているわけではありません。「子」も授っていません。

なのに主は「報いは非常に大きい」と言われるのです。現実と「みことば」には、あまりにもギャップがあるのです。

主は、そのようなアブラムを夜の空の下へと導かれました。

創世記15:5
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

私たちが「落ち込み」「不安」「恐れ」から回復する方法は一つです。

「さあ、天を見上げなさい」

アブラムは、輝く数えきれない星を見ました。

そして同時に、主の御声を聞きました。「あなたの子孫は、このようになる」

創世記15:6
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

私たちは「信仰によって」救われました。義と認められました。

しかし、信仰はただ救いを得るときだけのものではありません。

私たちは「信仰によって」救われた後「信仰によって」生きるのです。目に見えない方のみわざを信じ続けて生きるのです。私たちは「信仰に始まり、信仰に進む」のです。

「さあ、天を見上げなさい」と主は言われます。

そして、もう一度、主の「みことば」を思い起こすのです。主の約束を「口ずさんで」みなさい。

創世記15:1
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」

「恐れる」ことはありません。主は、あなたの「盾」であると言われます。そして、あなたの「報いは非常に大きい」のです。

ヘブル10:35
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。

私たちは「信じて」生きます。その「信仰」こそ「大きな報い」をもたらすものです。

私は天を見上げます
私は信じます
私の報いは非常に大きいです