創世記15:1
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。
「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」
主のことばが臨みました
「これらの出来事の後」とは、ソドムに住んでいた甥のロトを救い出した後ということです。
アブラムは「恐れて」いました。彼は元気を失っていたのです。
アブラムから信仰のすべてが失われたのではありません。彼は「天と地を造られた方」を信じています。
しかし、身体は疲弊しています。ロトを救出するのに、激しく体力を消耗したでしょう。心には「やる気」が満ちません。「ケドルラオメル王たちが報復に来たらどうしよう」という恐れも沸き上がってきたのかもしれません。
そのような時、フッと「自分は何者なのか」「自分は一体ここで何をしているのか」「自分は何も持っていない」という思いに捕らわれてしまったのではないでしょうか。
アブラムは「将来に対する漠然とした不安」に怯えてしまったのではないかと私は思います。
「やっと成し遂げた」「順調だ」「勝利の生活を送れている」と思うようなとき、なぜか突然、心が不安に襲われます。なぜか突然、やる気を失ってしまいます。
サタンが「食いつくすべき獲物」を狙っているのだと、頭では理解していても、身体も心も思うようには働かなくなることがあります。
自分のしていることに「むなしさ」を覚えてしまうのです。頭では理解していても、心が「みことば」をはねのけてしまうのです。
「報いは非常に大きい」と主はアブラムに言われました。
しかし、心も体も疲弊しているアブラムは、主のみことばを素直に聞くことができません。それも、もっともであると思います。
現実に、アブラムは何も手に入れてはいないのですから。カナンの地に「天幕」は張っていますが「土地」を持っているわけではありません。「子」も授っていません。
なのに主は「報いは非常に大きい」と言われるのです。現実と「みことば」には、あまりにもギャップがあるのです。
主は、そのようなアブラムを夜の空の下へと導かれました。
私たちが「落ち込み」「不安」「恐れ」から回復する方法は一つです。
「さあ、天を見上げなさい」
アブラムは、輝く数えきれない星を見ました。
そして同時に、主の御声を聞きました。「あなたの子孫は、このようになる」
私たちは「信仰によって」救われました。義と認められました。
しかし、信仰はただ救いを得るときだけのものではありません。
私たちは「信仰によって」救われた後「信仰によって」生きるのです。目に見えない方のみわざを信じ続けて生きるのです。私たちは「信仰に始まり、信仰に進む」のです。
「さあ、天を見上げなさい」と主は言われます。
そして、もう一度、主の「みことば」を思い起こすのです。主の約束を「口ずさんで」みなさい。
「恐れる」ことはありません。主は、あなたの「盾」であると言われます。そして、あなたの「報いは非常に大きい」のです。
私たちは「信じて」生きます。その「信仰」こそ「大きな報い」をもたらすものです。
私は天を見上げます
私は信じます
私の報いは非常に大きいです