No.2 つけ込む隙を与えるな!

風になびく犬

【創世記3章2節ー3節】
女はヘビに言った。「私たちは園の木の実を食べて良いのです。しかし、園の中央にある木の実については、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と神は仰せになられました。

「死ぬから食べるな」ではない

「死ぬから食べるな」ではなく「食べると死ぬ」のです。

主は、「危ないから、危険だから、死ぬといけないから食べてはいけないよ」と言われたのではないのです。

はっきりと「その木から食べるとき、必ず死ぬ」と言われたのです。

エバは、食べてはならない理由を自分なりに考えて付け足してみたのでしょうか。

「なぜ食べてはいけないのかしら? 神様は私を愛しておられて、私が死ぬといけないから食べるなと言われたのね」

まあ、そう考えたかはわかりませんが…

エバが「死ぬから食べてはいけない」と思っていたことは間違いありません。

しかし、それでは、もし「死なない」となれば食べて良いことになります。

「死ぬといけないから」という理由で食べてはならないのではありません。

主は理由は教えられませんでした。

ただ「食べてはならない。食べるとき、必ず死ぬ」と言われたのです。

さて、エバが「食べてはならない」ことに理由を持っていると知ったサタンは、それを見逃しませんでした。

こうなるとエバを誘惑するのは簡単な事です。

理由を取り除いてやればいいのです。

一言、こう言えば終了です。

〈創世記3:4〉
すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

「決して死なない」と蛇は言ったのです。

エバには、食べない理由がなくなりました。

なので食べたのです。

「滅びてしまうから罪を犯してはならない」

もし、私たちがそのように思って信仰生活を歩んでいるなら、いとも簡単に誘惑されてしまうでしょう。

「大丈夫。これぐらいなら罪じゃない」

「平気だよ。みんなやってることだもの」

確かにそれは「罪」ではないのでしょう。

しかし、罪か罪ではないかは、私たちの行動の基準にはならないのです。

〈1コリント10:23)
「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。

私たちは、いのちの木であるイエス様を選びます。御言葉を完全に理解できなかったとしても、「いのちのことば」と呼ばれる方を愛します。

愛するイエス様が言われたので、私たちは御言葉に従うのです。愛しているので従うのです。愛しているので主の御心を行いたいと望むのです。

そうすると生き方が変わります。

〈1ヨハネ5:3〉
神の命令を守ること、それが神を愛することです。その命令は重荷にはなりません。

罪か罪でないかは選択の基準にはなりません。

主が喜ばれるか喜ばれないか、主の御心かそうでないか、そのように考えるのです。

他の人がみな行っていても、主が喜ばれないなら行いません。

他の誰もがやっていなくても、主の御心なら私はやります。

私たちはそのようにして、ますます主の御心を知っていくのです。

〈ヨハネ14:21)
わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。

主は、主を愛する人にご自身を現わしてくださるのです。

その特権をサタンに奪われてはなりません。

「決して死にません」「それは罪とは言えないよ」「みんなと同じですよ」と誘い込む悪しき者に立ち向かいましょう。

〈ヤコブ4:7)
ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「サタンよ。退け。私は主を愛しているから従うのだ。主イエスの血潮により贖われて神のしもべとなったので従うのだ。イエス・キリストの御名により立ち去れ。」


私は主を愛しています。
主が私を愛してくださったからです。
私は御霊にあって主の御心を行います。